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【連載】サーカスのシルクロード

サーカスのシルクロード

第1章  綱渡りのルーツを探る

1.「チュルタギ」から「つく舞」へ

 頭のなかで「綱渡りのルーツ」はどこにあるのだろうという疑問が渦巻いていたときに、「つく舞」という芸能が突然舞い降りてきた。これは偶然だったのだろうか。

 2004年10月私は韓国の安城市(アンソン)で開かれた綱渡りフェスティバルに招待された。この町は、男寺党発祥の地といわれるところで、チュルタギ(綱渡り)の名手で、韓国の人間国宝にもなっている金大均が住んでいるところでもある。2000年韓国で出会い、翌年野毛大道芸フェスティバルに招聘したのをきっかけに、金大均は私のかけがえのない友人となっている。彼の綱渡りに賭ける熱い思い、そして南北朝鮮統一のために三十七度線で綱渡りのフェスティバルを開催するのが夢だというこの男の真っ直ぐな気持ちに私がすっかり惚れてしまい、彼もまたサーカス馬鹿の私に、何か共通するものを感じたところから、ふたりの友情がはじまった。
 アンソンで開かれた綱渡りフェスティバルは、金さんの尽力で実現できたといっていいだろう。野毛で知り合った綱渡りのパフォーマー三人、そして私が紹介したカザフの女性パフォーマーを加え、四組を海外ゲストとして、三日間の日程で開催された。金さんはこうしたパフォーマーを招待できたのは、野毛で公演できたからだと、私までもゲストとして招待してくれたのである。このフェスティバルについてはいずれまたこの連載のなかで詳しく紹介したいと思っている。
 三年ぶりの再会となった金さんは私を暖かく迎え入れてくれた。何も芸をするわけでなく、飲み会になると俄然張り切る日本からの、まさに無芸大食ゲストの私を訝しげに見つめる主催者のアンソン市の関係者に対して、金さんはいつも、この人は私の大事な友人です、この人のおかげでこのフェスティバルは実現できたのですと紹介してくれた。

 金さんとは、連日のように酒を飲み交わすことになるのだが、そんなある晩金さんは、「私はどうしてもチュルタキのルーツが知りたいのです、印度で生まれたといわれるこの芸が、中国を経て、朝鮮半島に来て、そして日本にも行きました、日本の綱渡りのルーツを教えてください」と真顔で聞いてきた。以前会った時もチュルタギの芸を守るだけでなく、この芸をさらに継承させるためにも、ルーツを調べたいと言っていたのだが、その思いはさらに深くなっていたようだった。公演活動だけでも忙しいのに、彼は二年前からアンソンの大学院に入学し、民俗学を学んでいるという。チュルタギのルーツを調べるためだった。
 サーカスの芸のルーツをたどることで、サーカスによる東西交流を調べられないかと思って集めた資料の山のことがすぐに思い浮かんだ私は、「もちろん喜んで協力しますよ、日本に戻ったらいろいろ資料を集めて送ります」と即座に返事した。
 これがひとつの呼び水となった。日本に戻ってから集めたままで段ボールのなかに入れられていた資料の山を掘り返しはじめた。そしてそんな時、「つく舞」と出会ったのである。

 韓国を訪ねた翌月の11月、上島敏明氏が発行している『大道芸アジア月報』に「つく舞の現代性」という記事が掲載されていたのである。
 このなかで上島氏は、「数年前はチュルタギという韓国綱渡りも来た。それは、信仰とか土俗とかがたっぷり滲み込んだ芸能で、サーカスで見る、いかにもショービジネスとしての綱渡りとは異質の面白さだった。つく舞にも、チュルタギと同じ匂いがある。これがアジアの芸能の匂いかもしない。」と書いている。
 「チュルタギと同じ匂いのする芸」というのではほっとけない。上島氏から氏が見た「つく舞」のビデオを見せてもらったり、いろいろつく舞のことを調べはじめることになった。そもそも「つく舞」とはどんな芸能なのか。『日本民俗大辞典』の「つく舞」の項にはこうある。

つくまい つく舞  茨城県龍ヶ崎市、千葉県野田市、千葉県旭市、香取郡多古町などに伝わる民俗芸能の一つで、蜘蛛舞の系統を引く曲芸をいう。以前は茨城県北相馬郡利根川町布川でも演じられており、幼年期の柳田国男が実見している。その語源は、「つく」が柱を意味するともテラツツキ(キツツキ)を意味するともいうが、諸説あってはっきりしない。龍ヶ崎で撞舞、野田で津久舞、布川で尋橦と書いて、いずれも「つくまい」と読む。旭の事例はエンヤーホー(陰陽法)、多古の事例はしいかご舞とも呼ばれており、ほかにも近世の利根川流域に数件のつく舞が分布していたことが知られている。また、類例として高知県幡多郡三原村広野の猪舞、高知県中村市利岡の猪子舞などをあげることができる。その芸態は高い柱を立てて頂上から地面へ綱を張り、柱や綱の上で曲芸を演じながら綱を降りてくるというものである。柱に登る役はさまざまな動物に扮しており、龍ヶ崎・野田・布川は蛙、多古は猿、旭は獅子、広野・利岡は猪である。利根川流域のつく舞は水運に関係することによって各地に定着していったらしい。多古・布川の舞台は船、布川の柱は帆柱といい、龍ヶ崎にも利根川筋の船頭が帆柱の上で曲芸を演じたという伝承が残っている。だが、つく舞はそもそも奈良時代に中国から伝来した散楽の一つであり、室町時代以降に流行して寺社などで勧進興行も開催された蜘蛛舞に淵源していると考えられる。

 中国から伝来した散楽のひとつで、蜘蛛舞にルーツをもつとなると、やはりこれはじっくりと調べなくてはいけない。
 ネットで、つく舞を検索にかけると、最初にでてきたのが、古谷津順郎著の『つく舞考』という本だった。さっそくこの本を入手した。この『つく舞考』を読まなければ、私はキエフのソフィア寺院にあるフラスコ画を見ようと思わなかったと思う。『つく舞考』は、シルクロードとサーカスというテーマの根幹にせまる本だったのである。

2.『つく舞考』

 『つく舞考』は、2002年岩田書院より出版されている。著者の古谷津順郎は、この本が出版される10年前に68才ですでに亡くなっている。古谷津の論考をまさに奇なる縁で発見したのは、この本の解説も書いている橋本裕之である(先に引用した「日本民俗大事典」の「つく舞」の解説も彼が書いている)。橋本が発掘しなければこの論考は日の目をみなかったことになる。
 この本を手にし、著者の古谷津が野田の生まれだということを知り、いわゆる郷土史家が調べた野田のつく舞についての民俗資料なのだろうと思った。実際古谷津は、自分が生まれ育った野田のつく舞についての資料を分析するところから始めている。しかし野田のつく舞を調べるために、周辺の町で行われている、或いは行われていたつく舞と比較をしていくうちに、つく舞の魅力に引き込まれ、さらに奥深い世界へとのめり込んでいく。龍ヶ崎と野田と近隣で演じられているつく舞を比較していくと、ルーツは別にあるのではないかと思われるぐらい横のつながりがないことに気づいた古谷津は、ここからさらにもっと深いところにルーツを求めるという、ダイナミックな方向転換を試みるのである。

「横がだめなら縦がある。
 横の関連性の追求をほどほどにして、縦の探求にとりかかってから、ようやく私にもつく舞がわかってきたように思う」(『つく舞考』はじめに)

 「横がだめなら縦がある」というこの潔さに、正直打ちのめされてしまった。それまでどれだけ調査に、資料発掘に、そして分析に時間をさいたことだろう。それをこんな風に簡潔に言い抜く、古谷津の学究姿勢に感動してしまった。この縦への探求が、綱渡りのルーツ探し、さらにはシルクロードとサーカスへという広大な世界へと、著者だけでなく、われわれを誘っていくのである。


 本書の前半では、まずこの横の研究成果が検証されている。

1 「津久舞が帰ってきた」野田の夏祭り
2 つく舞とは何か
3 近世つく舞資料
4 廃絶したつく舞
5 現在行われているつく舞
6 つく舞行事の比較
7 つく舞についての諸説

 この前半の七章で、民俗芸能「つく舞」についてかなり網羅的な知識を得ることができる。それだけでもこの書は十分な価値がある。
 各地に残されているつく舞について触れた資料のなかから「つく舞」を「尋橦」と書かれたものを発見、その語をたどりながらこの言葉が、「竹竿によじのぼり、竿頭で曲技を行う舞」を意味し、さらにそれが「西域の国名で、軽業をする人」を意味する「都盧」と結びつくことを知った古谷津は、正倉院に所蔵されている、奈良時代の散楽を描写した弾弓図のなかにこの芸があることを発見、そしてここから縦へと方向転換していく。この方向転換となる「8 「都盧」「尋橦の舞」の由来」からこの書は俄然スリリングな展開をしていくことになる。それはまさに野田から西域へと、一挙に広がるシルクロードへの道となるのである。

 もともと芸能史の研究家ではなく、先行する研究書や論考を具に調査していたわけでもなく、この縦への突破の学問的な価値については評価がわかれるところだろうが、ただ驚いたのは、古谷津がその推論をもとに、中国の敦煌やウルムチの新疆ウイグル地区博物館を訪ね、尋橦の東漸経路を確認していることである。解説の橋本がこの古谷津の行為に対して、「こうした行論の不備を指摘することは簡単であるが、古谷津の所説は野田のつく舞を生み出した壮大な経路を体験することによって得られた実感を吐露したものであり、古谷津自身がいわば身体的に証明することができたという位相においてこそ評価すべきものであった」と書いているが、まったく同感である。知りたいという情熱に駆られて、その証を求め西域まで足を伸ばすこの行為こそ、シルクロードとサーカスという壮大なテーマを追うロマンにふさわしいものといえよう。

 西域から散楽として日本に伝わってきた「尋橦」が、どうやって柱と綱の曲技であり、神事である「つく舞」となっていくのか、古谷津の探求はさらに続く。それは奈良に伝来した散楽が、中世を経て、江戸時代に開花する軽業・曲芸へ発展していく日本のサーカス前史にもつながる大きなテーマでもある。古谷津はこのテーマに果敢に挑んでいく。まさにそれは孤高の探求の旅であった。そしてそれは、古谷津の最大の関心事でもあった「つく舞」の語源を突きとめる旅でもあった。
 そしてついに古谷津は「つく舞」の語源にたどりつく。

「私はつく舞の語源を探し、更に尋橦−つく舞という説を裏付けるために、江戸期の随筆類約三〇〇篇四万ページを読み漁った。しかし、この二つを結びつけるものはどこにもなかった。渉猟は中世に遡った。そして中世の書「塧嚢抄」(あいのう抄=塵袋という意)に、ついにそれを見つけた。
 爾雅ニ曰。啄木ハテラツツキ也ト。亦都盧ト書テテラツツキマヒトヨム。文選ニ曰ク、都盧尋橦(トロノテラツツキマヒ、ハタホコニノボル)ト云々。都盧ハ国ノ名也。合甫ノ南ニアリト云々。此国ノ人、高ヒ木ニノボルトテ、高木ニ登ル事、テラツツキノ如シ。今ノ世ニ竹ノボルト云、此類ヒニヤ。
 尋橦−つく舞は、こうして結びついた。テラツツキマヒ−テラツキマヒ−ツキマヒ−ツクマイという転訛があったことを誰が否定できるだろうか。」(「奇祭 つく舞考」本書に所収)

 この執念と化した探求の志が、ひとつの結論へとたどり着くところはこの書の最大の読みどころといえよう。
 もちろんこの推理が正しいと断じるわけにはいかない。橋本が解説で述べているように、尋橦=つく舞とを早急に結びつけてしまった懸念はある。橋本も指摘しているように、竿芸と綱渡りの曲芸が結びついた「つく舞」と「蜘蛛舞」との関連をもう少しじっくり見ていく必要はあったかと思う。だがこうしたダイナミックな視座に立ったこの書があるからこそ、「つく舞」という芸能の魅力、それを追いかける愉しさを知ることができたわけで、ここに大きな意義がある。
 この論考を発見し、一冊の本として世に出した橋本の果たした役割は大きい。埋もれていた研究を世に出したということだけでなく、古谷津のこの研究の至らなかったところに厳しく論評を加えながら、その独自な視点を正しく評価し、芸能史研究のなかにきちんと組み入れようとしている。芸能史研究のなかで軽業や曲芸など身体的なものに注目し続けていた橋本だからできたことだといえる。こうした作業により、古谷津のつく舞研究は、学問の世界のなかに位置づけられることになった。古谷津のつく舞研究に賭けた情念は、橋本のアシストにより、立派に学問の世界にも確固とした足跡を残すことになったのである。

 さてサーカスとシルクロードなどという大それたテーマを掲げた自分に、はかりしれないエナジーを投入してくれたこの『つく舞考』を読み、どうしても本物のつく舞を見たくなった。茨城県龍ヶ崎では毎年七月二十七日に盛大につく舞が演じられているという。去年は仕事と重なり見に行けなかったのだが、やっと今年、生の「つく舞」を自分の目で見ることができた。
 東京からわずか一時間半の小さなこの旅は、私にとって「綱渡り」のルーツを探るという壮大なテーマへの最初の一歩となった。


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