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【連載】サーカスのシルクロード

サーカスのシルクロード

第2章  龍ヶ崎で「つく舞」を見る

 2006年7月27日。長い梅雨が明け、本格的な夏が始まった暑い日だった。昼過ぎ上野から常磐線快速電車に乗りこむ。勝手に遠いところなのだろうと思い込んでいたのだが、1時間ほどで乗換駅の佐貫駅に着いてしまう。ここで関東鉄道龍ヶ崎線に乗り換え、龍ヶ崎に向かう。2時過ぎに駅に着いた。都心からわずか1時間半で来れたのが、ちょっと意外といえば意外であった。
 祭が始まるまで時間はたっぷりある。商店街大通りを歩いてみる。通りには、二日前から始まったお祭のための縁日の夜店が延々と並んでいる。しかし店はすべてヒサシをおろし、売り子さんたちは照りつける日差しをさけるために近くの商店の軒下で休憩している。夏の午後の気だるさが、ただよってくる。これもまた祭のプロローグらしくて雰囲気がある。しかし長い一本道だった。駅から5分ぐらい歩いたところに八坂神社があった。思ったより小さな神社だった。「つく舞(撞舞)」はこの神社のお祭りである。つく舞の行列が出発するところはこの向いにあった。しかし人の気配はない。「つく舞」のポスターをあちこちで見かける。根町のつく舞通りで、夕刻行われるとある。夕刻という表記が気に入った。ただこのつく舞通りは、どこにあるのだろう。この商店街ではなさそうだ。ランドマークとなる高さ14メートルの撞柱(つくばしら)がまったく見えない。

 祭が始まる前に寄りたいところがあった。「つく舞」の常設展示があるという「龍ヶ崎歴史民俗資料館」である。地図でだいだいのあたりはつけてあったのだが、ずいぶん歩きまわることになる。大汗をかきながらここに着いた時は、4時をまわっていた。閉館時間が4時半だからすべりこみセーフだった。「つく舞」の模型や、舞男の衣装、写真、さらには「つく舞」の古い図版などが展示されている。(写真1)写真1.歴史民俗資料館のつく舞展示ここで「利根川流域のつく舞」というパンフレット、絵はがきを購入する。館員の方に「つく舞」のやる場所と時間を確認する。館員の人は「時間は夕刻なんですよ、今日は天気もいいし、暮れるのは遅くなるだろうから、始まるのは6時か6時半ぐらいの間じゃないですかね」と言う。八坂神社の近くで見た案内だと、祭の神輿が繰り出されるのは7時と書いてあった。それまでには「つく舞」も終わるのだろう。とにかく根町のつく舞通りに行かないといけない。

 5時前に根町にたどり着く。あった、あった、14メートルの撞柱が見えてきた。浴衣を着た若いお嬢さんたちや、見物客がぞくぞくとこの柱をめざして歩いている。写真2.つく舞通り(写真2)すでに300人ぐらいの人が集まっていたのではないだろうか。近くの病院の屋上には何台ものテレビカメラがセッティングされている。着いてまもなく舞男を先頭に、羽織袴姿の男衆、お囃子の人たちが行進してきた。この男衆はつく舞保存会、そして鳶連合会の人たちであった。
 そのまま撞柱が立っているところから、およそ100m離れたところにある八坂神社仮屋で御祓いを受けるために、休憩するという。
 この間撞柱の前の仮設ステージで地元の太鼓やお囃子などが披露される。仮屋の方を何度かのぞきに行ったが、舞男はいない。そういえば歴史民俗資料館の人が、始まるまで近くの民家で休憩するというようなことを言っていた。
 櫓のまわりには、地元の名産品やつく舞の絵はがき、ビールなどを売っているテントが並んでいる。どんどん人が詰めかけてくる。どこかで「これから1時間ぐらいかかるんだよなア」という声が聞こえてきた。なるほど、ということでビールを買い求め、さらに地元名産品コーナーであられを買って、のんびり待つことにする。
 30分ぐらい経ったところで柱を支える3本のロープをアンカーに固定する作業がはじまる。最近仕事でハイワイヤーのアンカーでいろいろ苦労したので気になり、この作業を観察する。アンカーのために道路には、専用の穴が開けられており、そこに杭をはめ込み、ロープを巻き付ける簡単な作業だった。アンソンの綱渡りフェスティバルのことが思いだされた。前夜祭に、町の中心のメインストリートで、デモンストレーションが行われ、このため数カ所に綱を張ることになったのだが、あちこちでアンカーを打つ、ハンマーの音がしたものである。あれに比べたら専用の穴があるのだから、簡単なものである。両サイドのロープが太く、舞男が昇り降りするロープは細かった。おそらく演技するためには細いロープじゃないとだめなのだろう。

 さんざん待たされているわけだが、見物客からは文句はでてこない。これがお祭なのだろう。ガツガツ見たいものだけ見ればいいという、イベントとはちがうのである。通りに吊るされてある提燈に火が灯り、ゆっくりと暗くなりはじめたころ、おもむろに舞男たちが入場してくる。6時を10分ぐらいまわっていた時だった。明るさの具合というのがあるのかもしれない。まったく暗いと、上で離れ業を演じる舞男にとっては危険なのだろうが、ただやはり提燈の明かりが目立つぐらいの薄暮のなかで演じた方が、引き立つ、そんなことから夕刻という曖昧な、お祭り時間が設定されているのではないだろうか。

 撞柱の櫓の下につくられた仮の祭壇には、山盛りの塩が盛られている。そこで引率してきた羽織袴の引率者の代表が酒を注いだあと、おもむろに櫓にあがり、四方の柱に塩をふりかけ、そのあとまた酒をそそぐ。お囃子衆(太鼓3人と横笛1人)が櫓にあがり、セッティング。そのあといよいよ舞男が櫓の上にあがり、囃子が演奏される。櫓の上にいる引率者たち男衆5人とお囃子衆が酒を酌み交わし、全員一礼。舞男の履いている白足袋に男衆のひとりが塩をすりこむ、そのあと日本酒を口に含みふりかける。(仮屋からの入場からここまではおよそ7分)
 18時20分すぎ、日がゆっくりと落ち、あたりが薄暮につつまれた頃、舞男はゆっくりと柱を登りはじめる。柱に撒かれた白い布を手がかりにしてゆっくり登る。足もこの布に挟みながら、体重をかけ安全かどうかゆっくり確かめるように、慎重に登っている。

アクト1  上の台に着く直前で、足を柱に絡めて逆立ち状態になる(出初式でよく見られるパフォーマンス)
アクト2  この状態で2mぐらいすべり落ちる。
 ここで大きな喚声が巻き起った。
 およそ7分後に上の台にたどりつく。円状の台を支える横板に座り込み、台を動かし安定性を確かめる。この状態で座ったまま上から糸を垂らし下におろす。下で男衆のひとりが、この糸に矢をくくりつけたものをまきあげる。上の台に用意されていた弓に矢をつけ射る準備。(3〜4分)
 この準備の時間がまどろこしいといえなくもないが、これはイベントではなく、あくまでもお祭りなのである。
アクト3 写真3.矢を放つ 台の上に立ち上がり、矢を放つ。四方に向かって、四つの矢を射る。この矢を下でキャッチできたものはこの年幸運を手にするという。と言っても観客がこの矢を求めて走り回るなんていう下品なことはしない。ただ待っているのである。(1分30秒ほど)(写真3)
 矢を放つという大きな仕事を終えて、舞男は横板に座り、弓を糸にまきつけて下におろす。
アクト4  横板に足をからめ、仰向けになる(手には扇子をもっている)
アクト5 写真4.頭倒立 再び台の上に立ってから、頭倒立。開脚と閉脚の倒立。(写真4)
この芸は見応えがある。命綱をつけずに、地上14メートルの高さで、演じる勇気はたいしたものである。これが終了、舞男は横板に座ったのちに、今度は台に移り、そこに座る。
アクト6 写真5.降りはじめる 頭を下にした状態で、綱の上を最初はゆっくりおりはじめる。そのあと加速してすべり降りる。ここでも大歓声がわきおこった。「蜘蛛舞」の世界がここで再現されたわけだ。(写真5)
アクト7 写真6.回転 半分ぐらいのところで(台からおよそ7〜8m)急ブレーキをかけるようにして止まり、そのあと綱の上で逆上がりの姿勢で回転。(写真6)
アクト8  足をからめて逆立ち状態で扇子をあおぎ、そのまま静止。
 そのあと綱を台に向かって、手と足を使い、のぼりはじめる。(支柱からおり、また戻るまでは、4分程度)
アクト9  台にたどりつき、こんどは支柱から逆さ状態のまま、櫓まで下りる。
(登り始めてから、おりるまでの時間は、25分30秒であった。)

 あたりはまだ明るさが残るものの、ゆっくりと闇が広がり、道ばたに吊るされている提燈の明かりがくっきりと浮かんでいた。
これから馬がこの撞舞通りを疾走するので、ご覧くださいというアナンスが流れたが、この時間ともなると上りの電車も少なくなるので、帰りの途につかなければならない。
 駅に向かう途中、昼間に通った大通りに出る。立錐の余地もないぐらいの人の群にびっくりした。どこからこんなに人が湧いてきたのだろう。しかも若者たちが多い。浴衣に身をつつんだ若い女性も目立つ。こういってはなんだが、こんな地方都市によくこれだけの若い人がいるものだと思ったくらいだ。縁日の店も昼間のよどんだ気配とうってかわって、活気に満ちている。こんなお祭りの雰囲気にひたれたのは、ほんとうに久しぶりのことであった。いいもんである。
 なんでも龍ヶ崎は、江戸時代仙台藩の飛び地だったという。初めて知ったことだった。これもなんかの縁があってのことかもしれない。また来年も来たいものだ。今度は一泊して、とことん祭りの夜を満喫したいものである。


 さて初めて見た「つく舞」、実に刺激的であった。やはり文献だけでなく実物を見て初めて見えてくる芸能の世界がある。「つく舞」は、古谷津が『つく舞考』でも書いていたように、竿芸と綱渡りというふたつの要素から成り立っている芸能である。ただ登るという芸と、綱渡りの芸が、一緒に演じられなければならないという必然性があまり感じられなかった。このふたつの要素はやはりどこかで接木されたものなのだろう。
 また綱渡りの芸は、エンターテイメント性が高い、つまり見せる要素が強いように思えた。扇をもって、逆さ吊りの状態になっていたが、あれはやはり受けを狙ってのことだろうが、それに比べて、撞柱を登るという芸には、エンターテイメント性よりも神事的な要素の方が色濃くでていたように思える。
 ではどうしてエンターテイメント性と神事性が接木されることになったのだろう。それを調べることが、次の大きな課題だろう。

 これを見て思い出したのが、今年1月インドで見た大道芸である。最初に地上でアクロバットを演じたあと、撞柱よりはずっと細い竹の支柱からかけられた2本のロープにぶら下がり、そこでバランス技を演じ、それから支柱に登り、この上で主に回転技を見せていた。この芸がいつごろできたのか、なんと呼ばれている芸なのかはわからないが、芸の構造自体は、「つく舞」と同じであった。ただ神事性はなく、ほとんど見せるための芸だといえる。

 古谷津は、「つく舞」のルーツを求めるなか、「竹竿によじのぼり、竿頭で曲技を行う舞」である「尋橦」に注目したわけだが、実際に「つく舞」を見るなかで、私は「綱渡り」の要素にこそ「つく舞」という芸能の鍵が隠されているような気がしてならなかった。
 「蜘蛛舞」が気になってきた。「つく舞」は、「蜘蛛舞」がルーツだろう、確たる根拠はまったくないのだが、この方向で勝手に「綱渡り」のルーツを探ってみようと思う。
 古谷津の本を読み、「つく舞」に惹きつけられ、こうして龍ヶ崎で「つく舞」を見て、古谷津が進んだ道とは、また別なところにルーツを求めようとしている。サーカスとシルクロードの道は一直線でつながっているのではなく、曲がりくねりながら、つながっている。これがまた面白いのではないだろうか。芸能の世界は、果てしなくひろがりがあるのだから・・・。
 まだまだ綱渡りのルーツを求める旅は、はじまったばかりである。


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