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【連載】サーカスのシルクロード

サーカスのシルクロード

第3章  ソフィア寺院の竿芸

 「つく舞」は「竿芸」と「綱渡り」が接木された芸である。『つく舞考』で古谷野がそのルーツとした「都盧尋橦」の芸は、英語で「パーチ」、ロシア語で「ペルシ」と呼ばれ、いまでも演じられている。
 綱渡りのルーツをたどる前に、この「パーチ」芸のことをしばし追いかけてみたい。何故なら、古谷野が「つく舞」のルーツを求めて、ウィグルまで行ったことに刺激をうけたわけではないが、キエフのソフィア寺院に11世紀に描かれたというフレスコ画にこの「パーチ」芸が描かれており、それを見にキエフにまで行ったところから、話をはじめたいからである。

1.ソフィア寺院のフレスコ画

 6世紀頃からバルチック海の東岸に進出してきた北欧のバイキングが、ドニエプル川を利用し、黒海に進出、コンスタンチノープル(現イスタンブール)との交易を開拓した。このドニエプル川の重要な地点に位置していたのがキエフであった。882年ノーヴゴロド地域を支配していたバイキングのオレーグがキエフを支配下にすると宣言。その後キエフは大きく発展し、スヴャトスラフ(962〜972年)の統治下においては西のカルパチアン山脈から、東のヴォルガ川、そして南の黒海から、北の白海にかけて、キエフルーシという中世の公国が誕生した。後のロシア帝国はこのキエフから始まった。支配者としてウクライナの地域に君臨していたバイキングはやがて土着のスラブ人の文化に同化していった。
 キエフルーシはウラジーミル大公(980〜1015)、そしてヤロスラブ賢候の時代(1019〜1054年)に最盛期を迎えた。当時キエフは400の教会と8つの市場そして5万人の住民を擁していた。ちなみに当時のロンドンやハンブルグの人口は2万人ほどだったというから、かなり大きな都市だったといえよう。

 この最盛期に建造された教会のひとつが、ソフィア寺院で、1037年に完成したといわれている。「聖母オランタ」や「ヤロスラフ賢侯の家族」といったフレスコ画やモザイク装飾にまじって、狩りなど世俗的なテーマのフレスコ画もある。この中のひとつが、階段室の壁を飾る「ヒッポポドローム」である。「ヒッポポドローム」はいわばビザンチンのコロセニウム、見世物が演じられていた場所である。
 この「ヒッポポドローム」の中に、「パーチ」芸が描かれているという。
 「つく舞考」を読んだ翌年二〇〇四年一月、このフレスコ画と初めて対面できた。このフレスコ画だけを見に、キエフに行ったといえたら格好いいのだが、実際は仕事のついでに見たというのが正しい。3日間で100演目以上のサーカス芸を見るという、いままでの出張でもかつてない過酷なスケジュールだったのだが、まさにその間隙をぬってやっと対面できた。

 キエフにはすでに10数回訪れているし、ソフィア寺院はキエフを代表する観光名所で二度訪ねている。ただこのフレスコ画はいままで見たことがなかった。今回のキエフ出張のコーディネイトをしてくれたロシアンバーの芸人ボエボダと、トランポリンの芸人ゲリムバトフスキイと一緒に、帰国前日にソフィア寺院を訪ねた。ふたりに同行してもらったのは、だだっぴろい寺院のなかでこのフレスコ画を探すのは容易なことではないと思ったからである。ちなみにふたりともサーカスの芸を描いたこのフレスコ画がここにあるということは知らなかったし、本当にそんな画が、ソフィア寺院にあるのかと半信半疑の様子だった。
 フレスコ画の写真を見せて、入場口で尋ねてもらったら、予想していたように受付の人は知らないという。寺院の要所要所にいるガイドに聞いてくれとのことだった。とにかく中に入り、みんなで手分けしてガイドのおばちゃんに片っ端から聞いてまわった。誰も知らないという。中には、こんな神聖な場所にサーカスの場面を描いた絵などあるわけがないとまじめに怒っていたおばちゃんもいた。広大な敷地の中からどうやって探したらいいものか不安になったとき、ボエボダがこのフレスコ画を見つけてくれた。ソフィア寺院にそんな画があるわけがないと怒っていたおばちゃんが担当していた区域内にあったのは、皮肉といえば皮肉なことであった。ボエボダが、ここにあるじゃないかとわざわざおばちゃんに言いにいったら、ちょっと顔を赤らめていた。
 もともとこのフレスコ画は階段室にあったらしいが、いまは保存のためにオリジナルは保管され、レプリカが、展示されている。オリジナルが見れなかったのは残念ではあったが、それでもやはりやっと捜し物に会えたのは嬉しかった。
 寺院内は写真撮影が禁止されており、そうでなくても怖いおばちゃんの担当地域ということで、写真を撮ることはできなかったが、後日ボエボダが写真撮影をしてくれ、送ってきてくれた。構図的にいうと、このフラスコ画は、この竿芸とスコモローフと呼ばれていた放浪芸人たちが描かれている。(下図参照)
 11世紀から18世紀までロシア国内を放浪しながら音楽や軽業、コミックショー、動物ショーなどを見せて暮らしていたこのスコモローフについては、またいずれ触れることになるだろうが、いわばロシアのクラウンの原型となった芸人であった。このフレスコ画は、12世紀ロシアの大道芸を描いた最初のものでもある。

ソフィア寺院のフレスコ画(全体)
ソフィア寺院のフレスコ画(全体)
パーチアクト(竿芸)
パーチアクト(竿芸)

 さてこのパーチの画であるが、兜のような帽子をかぶった男が肩の上で棒を支え、まさにその上を子供のような小柄な男が登っている様子をかきとめている。特徴的なのは、この二人の演者の顔が、どことなく黒ずんでいることである。ヨーロッパの顔でもなく、スラブの顔でもなく、中近東の顔とでもいっていいような顔つきをしていることだ。いちがいにこの画だけで判断をしてはいけないのは重々承知したうえでも、スラブやヨーロッパの顔ではないことは間違いない。
 同行してくれたふたりの現役のサーカス芸人はソフィア寺院をあとにするとき、真面目な顔で、私に「ありがとう」と声をかけてきた。こっちこそありがとうなのだが、まさかキエフを代表するここソフィア寺院で、いまから10世紀以上も前に描かれたサーカスの画と会えるなんて思ってもいなかったのだ。自分たちがやっているサーカスのルーツを見たということに、彼らも感動していたのだろう。

2.棒技(ペルシ)のルーツ

 ロシア語で「ペルシ」と呼ばれるこの芸、ソフィア寺院に描かれている演者の顔が、なんとなくペルシャ人ぽっいような気もして、ペルシは、ペルシャ人から来た名前なのかと最初は、悦に入っていたのだが、「サーカス百科辞典」を見ても、ロシア語の辞典をひいても、このことばはparchから来たものであることがわかる。単なる偶然の一致というやつである。
 1972年に発行された「サーカス百科辞典」の「竿芸」こと「ペルシ」の解説には、この芸のルーツについてはなにも書かれていないのだが、序文のなかでこの芸のルーツについて触れている。

「サーカス芸術は古代から労働過程、習俗、宗教礼拝と結びついていることはよく知られている。例えば東洋の国々では、自分たちが縒ってつくった縄の強さを証明しようとした職人たちが、支柱のようなものにその縄を張り、その上を歩いたり、走ったり、さらには跳躍までしていた。古代ペルシャの兵士たちは、周辺をよく見るために、同僚が腰や肩の上で支える棒に登った」

 このソフィア寺院のパーチ芸の画を見ると、この解説がなんとなく真実味を帯びてくる。日本で最初にこのフレスコ画のことを紹介した辻佐保子は、「軽業の東西交流」の中で、10世紀半ばのビザンチンで、この芸を見たクレモナ司教リウトプラントの回想を引用している。

「六−七メートルに達する長い木の棒を、手で支えることもなく頭の上にまっすぐ立てた大男がまず入場する。この棒の頂きより少し下のところには横棒が一本わたされている。
 次に腰布をつけただけの少年が二人登場し、棒にするするとよじのぼり、さまざまな運動をみせてから頭を下にして下りてくる。その間、頭上に棒を支えた大男は微動だにせず、棒はまるで地面に打ちこまれたようにまっすぐなままである。二人の少年が平均をとりながら同時に横棒の両端にいるのはまだ理解できる。しかし、一人が下りてしまってからも他の一人はまだ上で業を演じているのである。そしてかすり傷一つ負わずに下りてくるのをみて、まったく賛嘆の念を禁じえなかった・・・」

 ソフィア寺院のフレスコ画で描かれているパーチ芸よりは、竿の上に横棒がわたされ、その上でふたりの少年がバランスをとっていたというから、芸の内容はより高度なものになっている。ただ大男と少年という組み合わせは、ソフィア寺院のフレスコ画で描かれたものと同じである。
 「イーゴリ軍記辞典」によると、950年にキエフのオリガ后妃がコンスタンチノープルを訪れている。コンスタンチノープルのヒッポポドロームで演じられた見世物の中に、この竿芸もあったのではないだろうか。
 気になるのは辻が、ここで引用している14世紀に書かれたパーチ芸の観覧記録である。

「さらに十四世紀に入っても、ニケフォロス・グレゴラスは「棒のぼり」があいかわらず盛んであり、この一団はエジプトからきたと称しており、近東のあちこちで巡業していたと語っている。」

 パーチ芸のルーツは、ペルシャとかエジプトとか中近東あたりにあるのではないだろうか。

 時代はさらに遡り、紀元前108年武帝が漢を治めていた中国で、大規模なサーカスの公演があった。「史上はじめて記録された国家主催の大規模な雑技大会」(『中国芸能史』)となったこの公演では、中国人による雑技だけでなく、シルクロードを経て、安息・条支(ともに現在のアラビア地方)などからやって来た、外国人たちの演技も多く含まれていた。この中には竿芸もあったという。ビザンチンで演じられていた竿芸は、こうした流れを組んでいたのは間違いないだろう。中国で演じられた竿芸がどんなものだったのか見ていかねばなるまい。そこで竿芸は、「都盧尋橦」と呼ばれていたのだから。


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