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今週買った本・読んだ本 3月30日-2

山下恒夫『大黒屋光太夫−帝政ロシア漂流の物語』
出版社 岩波書店(岩波新書) 定価740円+税

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 著者の山下恒夫氏は、自他ともに許す漂流民研究の大家。徹底した資料の蒐集、そしてその解読は、ともすれば漂流民への愛着からロマンシズムに流れがちな私をはじめとする好事家たちの思い込みとは一線を画し、あくまでも事実を読み解こうとする執念が、氏の漂流民研究を貫いている。私が発行している石巻若宮丸漂流民の会の会報『ナジェージダ』は毎回氏へお送りしているのだが、いつも厳しい批判を頂戴している。自分の都合のいいように書くなよ、ちゃんと文献を読めよという批判が、漂流民のエピソードを面白くおかしく書こうとしている私へのいい意味での戒めになっている。

 そんな山下氏が、新書版で光太夫をとりあげると知って、ちょっと驚いた。氏の研究スタイルからいって、ダイジェスト版でしかも一般読者を相手にする本を書くというのは意外だったのかもしれない。
 実際に読みはじめてさらに驚かされたのは、氏の研究スタイルからいって絶対にありえない小説風の叙述をしていたことだった。ただ読み進むなかで、納得がいく。長年にわたって、まさに心血注いで完成させた『大黒屋光太夫史料集』全四巻を編纂するなかで、光太夫と向かい合ってきたことで、見えてきた世界があり、いつのまにかに光太夫と一体になっていたのだろうということだ。誰もがなしえなかった膨大な史料を読み解くなかで、きっと光太夫が見たもの、考えたことがはっきりととらえることができた、だから小説風の書き方ができたのではないかと思う。
 だからこそ、新書という限られた枚数のなかで、単なるダイジェストに終わらず、最新の研究を踏まえた非常に中味の濃い光太夫論になっているだろう。これだけ新書で読みごたえのある本というのもめったにないのではないだろうか。『大黒屋光太夫史料集』を編纂する過程で発掘された新史料の成果が随所に見られ、新たな漂流民像をつくりだしている。特に光太夫とともに無事に江戸の地を踏む磯吉の『魯西亜国漂舶聞書』によって、いままで井上靖や吉村昭といった大作家が書き残した光太夫とはまたちがう人間像が、浮き彫りにされたと言っていいだろう。
 ぜひ多くの人に読んでもらいたい本だと思う。
 ただひとつ腑に落ちなかったのは、イルクーツクに落ち着いた漂流民の扱いをめぐって、イルクーツク総督府とシェリホフらイルクーツクの商人たちが、彼らを帰化させようとしたため、エカテリーナに光太夫らの帰国嘆願を握りつぶし、それに対して日本との通商をするために漂流民を帰国させるというエカテリーナの政策と、対立するものとしてとらえられていることだ。皇帝よりも北太平洋に進出をはかるシェリホフらイルクーツク商人団にとって、北洋での慢性的な物資不足、さらには毛皮の販路の拡大のために、日本との通商は緊急を要することであったはずだ。漂流民たちを帰化させて、通訳として使うというだけではなく、通商の口実として漂流民を利用するという方法も彼らの構想のなかにあったのではないかと思う。エカテリーナとイルクーツク商人団との対立を際立たせているのは、どうなのだろうかという疑問を感じたことを付記しておく。


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