home > 会からのお知らせ > 第1回例会 斎藤善之公開講座『近世の海難をめぐる諸問題』

2002.04.16

第1回例会 斎藤善之公開講座
『近世の海難をめぐる諸問題』

2002年3月30日に行われた石巻若宮丸漂流民の会第1回例会の公開講座『近世の海難をめぐる諸問題』の内容を紹介する。
 講演していただいた斎藤善之助教授は、江戸時代の回船研究の第一人者で、特に伊勢湾地区の海運を調査するなかで、従来の菱垣回船、樽回船以外の海運集団があったことを発見し、学会で注目を浴びている。
 東北学院大学に着任以来、斎藤氏は、奥州地区の海運調査を進めている。最近いわき市沖で海難にあった石巻の千石船に関する江戸時代半ばの文書がいわき市内の神社で発見されたことにともない、その調査も始めている。
 宮城に腰を落ちつけられた斎藤氏によって、謎が多いとされている奥州地方の海運について、調査が重ねられるなかで、若宮丸のような漂流を生み出した歴史的背景がもっと具体的に明らかにされるだろう。

 今回の公開講演では、若宮丸が漂流した当時の日本の航海技術や経済的背景などを具体的にお話いただいたうえで、氏も関わった愛知県の中部日本放送が制作した尾張出身の音吉についてのドキュメンタリー番組を観覧した。そのあといわきで見つかった「八坂神社文書」なども参照にしながら、江戸時代、海難を具体的にどう処理していったかという興味深い話を伺うことができた。
以下斎藤氏の講演内容を紹介するが、ここでは、音吉のTVドキュメンタリーの内容については割愛させていただいた。

公開講座『近世の海難をめぐる諸問題』

斎藤善之氏(東北学院大学)

漂流の背景となった海難についての基礎知識

 「漂流」は、いうまでもなく海難から発生しているわけだが、こうした海難の背景にあったものを中心に話を進めたいと思う。この漂流だが、江戸時代後半に集中していることに注目したい。中世には漂流の事例は少なく、ほとんどが沈没している。
なぜこの時代に漂流が集中しているか、その条件や背景をまず見てみよう。

1.航海需要の高まり

 江戸前期に比べて後期の物流は飛躍的な伸びをみせている。江戸を往来する船の数が多くなり、その頻度も高まる。例えば、江戸で蕎麦とか寿司が人気になるのだが、これにともない、ダシの素材となるコンブは北海道から、鰹節は土佐からというように、巨大な消費を支えるために物流が伸び、このために航海需要が高まることになった。交通量に比例して、事故が多くなっていくのである。

2.航海能力の向上

 こうした需要の高まりは、航海能力の向上にもつながっていく。江戸前期の船は長期の航海に耐えられず、日が暮れると近くの港に寄港していたのに対して、江戸後期の船は、長期の航海に耐えられるように建造されていた。夜間航海も可能になり、帆の改良もあり、2~3ノットだった速度も、6ノットで航海できるようになるなど、格段に速くなっていた。さらには食糧を積んでいたこともあって、長期の漂流にも耐えられるようになっていた。

3.船体の特徴

 江戸後期の千石船の大きな特徴は、前後が水密甲板になっているのに、中央部に巨大な開口部があったことである。中央部も水密甲板にすれば、事故は少なくなったはずだ。しかしこれは荷役を楽にするために、開口部を大きくする必要があったのだ。西洋の帆船は一回に航行する距離がながく、荷役の頻度は多くないが、それに対して、日本の船は、荷役を迅速にしなければならなかった。こうした経済性を追求するなかで、この大きな開口部ができたのだが、このため暴風雨の時など波が打ち込み易くなってしまった。
江戸後期、流通が盛んになり、それにともない海運業界が発展し、航海技術が進歩していくなかで、漂流というのもまた必然として増えていったことがわかる。

海難処理の実際

 船が難破したり、沈没したりした場合に、どう処理するのか、誰が損害を弁償するのかという問題がでてくるが、こうした海難処理をまとめた慣習法例集がすでに戦国時代のおわりにできている。これが「廻船式目(かいせんしきもく)」である。
このあと豊臣秀吉がこれを踏襲するかたちで「海路諸法度(かいろしょはっと)」を制定する。十九条からなるこの内容は、船舶賃借、積荷、運賃、乗船下船、碇泊ま、航路、衝突など多岐にわたるものだった。徳川幕府は秀吉の発布したこの法規を無効だとしたが、慣習にもとづく規定だったので、近世にも生き続けることになる。
具体的な海難処理についてだが、この処理自体を「浦仕舞(うらじまい)」と言っていた。つまり事故現場に荷主や、船主の名代が派遣され、事故にいたる状況調査、残存荷物や船具の処分、救助、連絡に要した諸経費の支出を行い、村役人から事故証明書「浦証文(うらしょうもん)」が交付されて事故処理が完了したのである。
海難によって失った荷や船の賠償をどうしたのか。これは「船損荷損(ふなぞんにぞん)」といわれ、積荷は荷主の損、船は船主の損を負担することになっていた。この他にも時化で「打荷(うちに-海難を避けるために、積荷を海中投棄すること)」し、それにより他の荷物が助かった場合は、損害全体を荷主全体で分担する賠償のしかたもあった。