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2001.10.15 / 更新2006.05.09

会報準備号0-3

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若宮丸漂流民の会(仮称)会則(案)

※発足に伴い、正式な会則が施行されたので割愛しました。
 (PDF版には掲載しています)

若宮丸漂流民の会(仮称)結成準備委員会の報告

1.出席者

石垣宏(石巻高校教諭)
大島幹雄(デラシネ通信主宰)
木村成忠(東北放送ラジオ制作局長)
高橋寿之(文学研究者)
久野義文(石巻かほく記者)
平川新(東北大学東北アジア研究センター教授)

2.六人の侍-出席者のプロフィール

 簡単に出席者のプロフィールを紹介します。

石垣宏氏は、歴史の教師としてだけでなく、郷土史の第一人者として知られています。若宮丸漂流民研究で先導的な役割を果たしてきています。

大島幹雄は、若宮丸漂流民のひとり善六に焦点をあてた「魯西亜から来た日本人」を著すほか、レザーノフの辞書を発見、さらには昨年は岩波文庫よりレザーノフの『日本滞在日記』の翻訳も出してます。

木村成忠氏は、ラジオドキュメンタリーのプロデュースで数々の秀作を発表、若宮丸漂流民についてはライフワークとして取り組み、『語り伝えよ、我死したることを』、『我にナジェージダあり』の二本の番組を制作しています。

高橋寿之氏は、出席者のなかでは最年少、学習塾を経営するかたわら、文学研究にとりくんでいます。氏のHP『津太夫の世界一周』は、若宮丸漂流民を歴史的に多様な文献をつかい詳細に紹介したものです。

久野義文氏は石垣先生の最初の教え子、石巻かほくを舞台に若宮丸漂流民のことを意欲的に紹介しています。

平川新氏は、日本史がご専門、いまは東北大学が取り組んでいるシベリアを舞台とした日露交流研究プロジェクトの中心となり、ロシア側に残されている日露交流関係の史料蒐集、さらには翻訳出版のプロデュースをしています。

 ということでなかなか強力なメンバーが準備委員会に集まったわけです。

3.若宮丸漂流民の謎にせまる

 若宮丸漂流民に関しては、まだまだ解明されないいくつかの謎があります。こうした謎を解くことも、会の大きな目的になると思います。この準備会でも自然にこうした謎について、意見が交換されることになりました。これがなかなか刺激的な内容でした。

1)吉郎次の墓はどこにある

 イルクーツクにたどり着いたメンバーのなかで最初に亡くなったのは、最年長の吉郎次でした。この死の模様については、『環海異聞』などで紹介され て、墓のスケッチも描かれています。そしてこの墓は、このおよそ百年後にドイツ留学から帰国途中、シベリアに寄った日本人が見つけています。果たしてこの 墓がいまもあるのか?
これについては、拙著『シベリア漂流』のなかでも紹介しているように、玉井喜作が重要な鍵を握っているように思えます。百年後に吉郎次の墓を発見した小 宮は、玉井とドイツ時代に交流があり、小宮を墓に案内したムルケなるドイツ人は、イルクーツクに玉井が滞在した時に、世話になった人間です。おそらくこの 墓を最初に発見した日本人は、玉井喜作でしょう。この玉井がドイツ語でいち早く、若宮丸漂流民のことを紹介しています。幸い玉井がイルクーツク時代に書い ていた日記は、私の手元にあります。『環海異聞』や玉井の日記などを読み直すことによって、吉郎次の墓のあった場所は特定できるかもしれません。

2)若宮丸漂流民イルクーツク残留組の子孫はいるのか?

 ノヴォシビルスクに拠点を置き、日露交流の文献資料を精力的に収集している東北アジア研究センターの平川氏より、たいへん興味深い話が聞けまし た。この子孫探しについては、すでに研究員に依頼をしており、これについては新聞などマスコミを通じて、市民に捜索をすることになっているとのことです。 まだ結果については報告が来ていないとのことですが、成果が待たれます。
また日本とソ連の国交が回復した直後、戦前敦賀領事、函館領事を勤めたキセリョーフが、函館新聞などに、自分の曾祖父は日本人だったと語っていることは よく知られています。キセリョーフと名乗った若宮丸漂流民は、ふたりいるのですが、そのうちのひとり善六の曾孫だと思われます。このキセリョーフのその後 を調べることで、子孫の行方もわほかるかもしれません。これも平川氏の話しによると、このキセリョーフは、スターリン時代に粛清された可能性が高いとのこ とです。シベリアのパルチザンとして活動していたキセリョーフはレーニン派だったと思われます。レーニン派の古老共産党員が、粛清の対象だったことは周知 の事実です。ただ他の漂流民に比べて、百年前までは辿れるのは事実、今後の研究の大きなテーマになりそうです。

3)レザーノフが持ち帰った日本の本が見つかった

 レザーノフの『日本滞在日記』を読むと、彼が日本から結構たくさん贈答品をもらっていることがわかります。これらの品物がどこに消えたのか、謎の ひとつでした。これについても平川氏より、衝撃的な報告がなされました。すでに東北アジア研究所はレザーノフが日本から持ち帰ったものと思われる日本の書 物を発見しているとのことです。他の品物についても、現在追跡中とのことです。
若宮丸漂流民たちも日本にロシアからたくさんのものを持ち帰ってきています。そのうちのひとつ、太十郎の上っ張り(ジャケット)は、いまでも室浜の奥田氏が保管しています。この他のものはどこに消えたのか、これは今後地元を中心に調査する必要があると思われます。

4)『環海異聞』のオリジナルはまだ見つかっていない

 若宮丸漂流民に関する文献資料は、たくさん残されています。まず『環海異聞』の写本は全国各地に残されています。しかしこのオリジナルはまだ発見 されていません。石垣氏の話によると、大阪のある銀行がそれらしきものを持っているとのことです。これも是非見てみたいし、オリジナルか写本なのか、調べ なくてはならないでしょう。
また『環海異聞』とは別な視点から、若宮丸漂流民について書かれた異本が、これもまた全国的に流布されています。石垣氏の話によると、こうした異本の ルーツは、三つあるとのことです。ひとつは、『環海異聞』ルート、二つめは、長崎での取調べ記録ルート、もうひとつは故郷に戻ってきた津太夫が語ったこと がらを筆記したものです。会の活動のひとつとしてこうした写本、異本を集中的にまず集めることが必要かもしれません。

 この他にも、高橋氏からは、若宮丸漂流民たちがオホーツクからイルクーツクまでの行路はどうなっているのだろうかという疑問も出されました。まだ まだ若宮丸漂流民については多くの謎が残されています。また二百年前の日本とロシアを結んだ、若宮丸漂流民の謎解きには、人間と歴史のロマンを繙く、愉し さもあるかもしれません。
そんなことをひしひしと感じた有意義な準備会だったと思います。

4.会則と役員案、設立総会、そして名称について

 六人でこうした謎解きについて意見交換したあと、会の骨格について話し合いました。会則の案については、ここで紹介してあるとおりです。まだ決定ではありません。理事のメンバーでさらにつめ、さらには皆さんからのご意見を参考にしながら、総会で決めたいと思います。

 役員については、会長石垣氏、副会長木村氏、平川氏、事務局長大島という線で、進めたいと思います。

 名称についてはいろいろ意見が出され、これもまだ決定には至っていません。研究会というのは固すぎるし、友の会というのもちょっとちがうかもしれ ないということで、暫定的には若宮丸漂流民の会ということでとりあえずは進めていき、総会前までに最終決定することにしました。

 その総会ですが、12月8日(土)午後2時ぐらいから、場所は石巻文化センターで行うことに内定しました。詳しくはまた最終決定してから皆さんに ご報告いたします。すでに会員になりたいという方が何人かいらしてますが、この日会場で会員手続きをしてもらうことになり、それ以降入会案内を各方面にお 配りしたいと考えています。
この日は事務的なことの取り決めを行うほか、大島幹雄が若宮丸漂流民に関して、講演をする予定になっています。また石垣氏から、県内に在住する若宮丸漂 流民関係の子孫の方にも集まってもらったらいいですね、という意見も出されました。ぜひ呼びかけて多くの方に集まってもらいたいと思ってます。


 こうして六人の侍たちが集まったことで、会のすすむべき道筋がかなりはっきりと見えてきたような気がします。12月の設立総会に向けて、一歩一歩進んでいきたいと思います。