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神彰伝取材ノート

第2回 野毛フラスコで平岡正明氏のインタビュー

2002年12月8日

 平岡さんとは「飲み友だち」ならぬ「野毛友だち」、私のホームグランド横浜の野毛で知り合い、かれこれ10年近くの付き合いになる。いつも会うのは、野毛の街、今回も野毛で会うことになった。

 神彰のAFA時代の仕事で、ひとつの転換点となった興行がアート・ブレイキー日本初公演だった。ファンキージャズ炸裂ということで、日本の観客をおおいに沸かせたこの公演を、ジャズ評論家としても名高い平岡さんだったら、見ているのではないかと思ったのだ。野毛で大道芝居の打ち上げがあった時に聞いてみたら、この公演は見ていないというのだが、もっと面白い話を教えてくれた。平岡さんは、なんと神のところで、働いていたというではないか。しかも平岡さんは、『神彰の大いなる遺産』(「スラップステッィク快人伝」所収 白川書院 1976年刊)という神彰論を書いていたのである。
 平岡さんにいただいたこのコピーを読んでびっくり。AFA解散後、呼び屋として再起した神は、アートライフという会社を設立しているが、もうひとつ天声出版という出版社も立ち上げていた。寺山修司やゲバラの本なども刊行しているのだが、この会社を不滅のものにしたのが、雑誌『血と薔薇』であった。1号から3号までの責任編集人は澁澤龍彦であった。いまでも澁澤龍彦が編集した幻の雑誌として、『血と薔薇』は根強い人気をもっている。神の会社の経営悪化ともに、原稿料の支払いが滞るという問題もあり、澁澤は編集人をおりることになる。しかしこの雑誌をなんとか存続したいと思った神は、部下の康芳夫に依頼し、当時新進気鋭の評論家として頭角を現していた平岡さんに責任編集を依頼することになるのである。平岡さんは、「敗戦処理」として、『血と薔薇』4号の編集人となり、急遽天声出版に就職することになった。
 アート・ブレイキーの話よりも、こっちの話をじっくり聞かねばならない。
 この時はAFA時代のことを書きはじめたばかりの時だったので、とりあえずはお預けにしておいた。AFAが解散するところまでを書き終えて、いよいよ平岡さんに話を聞く時がやってきた。

 電話をしたら、快く取材に応じてくれ、「野毛で会いましょうよ」と言ってくれた。平岡さんがいれあげている野毛の大道芝居の忘年会があった12月8日、野毛のフラスコでお会いすることになった。
この時平岡さんは、また書いたばかりの素敵なエッセイ「マイルス・ディビスと澁澤龍彦」のコピーを用意してくれていた。
 神彰と平岡さんを結びつけた康芳夫との出会い、そして「血と薔薇」の時の思い出が軽妙に語られているこのエッセイ、そして「スラップステッィク伝」で神と平岡さんの関係はすべて語りつくされているといってもいいかもしれない。でもおよふ1時間半ほどのインタビューのなかで、平岡さんはここで語られなかったいくつかの秘話を思い出してくれた。

 平岡さんは神のもとで1ヶ月間働き、月給5万円をもらい、「血と薔薇」第4号を出し、そしてアートライフ、天声出版の倒産に立ち会うことになる。「血と薔薇」のために平岡さんが動員した執筆者松田政男、足立正生らに原稿料を払うことができなかった。普通なら恨みをもつはずの人間に、平岡さんはシンパシーを寄せていた。金に困っていた時に、いわば見捨てられてしまったのにも関わらずである。

「左翼の連中、活動家たちより、呼び屋の連中のほうがずっと良かった。俺はナンモ怨んでいないよ。逆だね。神という男に会えてほんとうによかったと思う。また立ち直る時があれば、神のところでもう一回働きたかった。ジャズの呼び屋としてね」

こんなことも言っていた。

「俺はダッタン人が好きなんだけど、神という男はダッタン人の血を引いているんじゃないかな、大陸的なんだよ。倒産して翌日会社へ行ったら、空っぽ。なにも残ってないんだよ。机も椅子も、なんにも。見事なもんだったね。撤収!ってやつだよ。電話線ぐらいしかないんだから。馬賊の撤退だよね」

 平岡さんにとって神と一緒に仕事をした一カ月間は、実に濃かったのである。そしてそれがいまでも平岡さんの心に、しみこんでいたのだ。いい話が聞けた。


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