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日本人の足跡−沢田豊

第2回

以下は産経新聞のHP、産経Webからの転載です。


【日本人の足跡】
平成 13年 (2001) 4月20日[金] 大安


日本人の足跡(87) 沢田豊(1886-1957)2


サーカス芸人
【曲芸の原点は浅草に】
軽業一座とロシア公演

 東京・浅草。江戸時代から、多くの大道芸や見せ物が集まり、庶民の娯楽の場として栄えた。

 昭和に入っても映画館や劇場が立ち並び、エノケン(榎本健一=一九〇四−七〇)、渥美清(一九二八−九六)、萩本欽一、ビートたけしらが巣立った。間違いなく、スターへの登竜門であり続けた。

 浅草寺(せんそうじ)西側の浅草六区。昨年十一月、小雨の中を歩いた。パチンコ店の宣伝をするチンドン屋の姿があった。小太鼓と鉦(かね)をたたいては、道行く人に入店を呼びかける。昭和五十年生まれの私(二十五歳)は、チンドン屋をほとんど見たことがなかった。

 チンチキドンドンチンドンドン

 今、以前よりは活気がなくなったといわれる浅草六区だが、厚い化粧をした三人組が繰り出す軽快なリズムは、全盛期の「アサクサロック」のイメージを膨らませた。

 芸人、沢田豊の原点も実は、この浅草にあった。

 沢田は愛知の出身である。明治十九(一八八六)年一月十日、愛知県葉栗郡大野村(現・一宮市浅井町大野)に医師の三男として生まれた。

 浅草には祖父がいた。明治二十四(一八九一)年十月に東海地方を襲った濃尾地震から逃れて、この祖父の家に寄宿した。死者約七千三百人、全壊家屋約十四万二千戸。わずか五歳の沢田が東京に疎開せざるを得なかったほど、沢田の愛知の家も相当な損害を受けたのだった。

 沢田は家族と離れたまま、浅草で育った。劇場に通った。中でも玉乗りなどの軽業(かるわざ)一座「横田一座」を追いかけ回した。明治十年代に大阪・千日前で始まったといわれる玉乗り芸は当時、一大ブームだった。

 毎日のようにやってきた沢田は、楽屋にも自由に出入りした。「沢田の坊ちゃん」と親しまれて、そのうち玉乗りなどを教えてもらうようになった。団長の横田徳三郎は、少年の素質に目を見張った。一座に誘うことも考えたが、父親に反対されることを恐れて諦めたという。

 その横田一座が、ロシアのウラジオストクで公演することになり、浅草から長崎へ旅立ってしまった。

 「医師の仕事は僕には向かない。父のあとは継げない。芸人になりたい。今がチャンスだ…」

 沢田は、こう思ったのだろう。祖父の家を飛び出して一座を追って長崎へ向かった。十六歳の決断だった。

 はるばる東京から追って来た少年を、どう受け入れたのか。ともあれ、芸人の素質に恵まれた沢田を仲間に加えた「横田一座」の約十五人は、明治三十五(一九〇二)年、ロシアを目指して長崎港を出発した。

 〈船がウラヂオストツクに着く三、四日前になつて船室で寝てゐると(中略)何かゝ船にぶつかるので驚いて甲板に出てみると、あたり一面氷の海である。船具もつらゝでおほはれ、こんな光景は初めて見るので、今でも忘れられずにゐる。陸が見える頃には皆して氷上を走り、船と競争したりして、誠に面白い經驗だつた〉

 沢田が四十八歳の一九三四年夏、ブラジル・サンパウロの公演先で、現地の邦字新聞『日本新聞』に寄せた青春の日の回想である。

 文面でみるかぎり、初めての外国渡航だったのに、緊張感は感じられない。十六歳の少年に、「世界デビュー」という気負いはなかった。

 ウラジオストク到着の数日後、沢田は初舞台を経験する。得意の玉乗りを披露。〈皆から大いに誉(ほ)められた〉(『日本新聞』)と語っている。

横田一座 一座は、約二カ月のウラジオストク公演を成功させた。当時のロシアにとって日本は未知の世界。人気は沸騰し、一晩で一万ルーブルを稼ぎ出すこともあった。当時のレートはほぼ一ルーブル一円。上級公務員の初任給が五十円だったというから、とてつもない大金である。

 一行はこの成功を糧にハルビン(中国北東部)を経由してウラル山脈を越え、シベリア横断の公演に出た。

 ウファという南ウラル・バシコルトスタン共和国の首都でのことだ。

 ホテルに到着すると、元レスリング選手の筋骨隆々とした支配人がいた。団長の横田が覚えたてのロシア語で悪態をついた。それが、支配人の耳に入ってしまった。

 居合わせた沢田が、とばっちりを受けた。大男は沢田の襟首をつかんで投げようとした。沢田は逆に相手の横顔を殴った。激怒した支配人は沢田をつかみ、一、二メートル張り飛ばした。

 沢田も負けていない。次の瞬間、相手の急所をねじり上げると、支配人は気絶し、どっと倒れた。

 この騒動が町中で話題となり、ウファを仕切っていた皇帝ニコライ二世の血筋のアレクセフという男の前で、公演することになった。沢田の至極の技を見たアレクセフは、ニコライ二世にも見てもらうよう取り計らった。

 一座は、宮殿のある首都(当時)サンクトペテルブルクに入った。沢田は御前演技を行った。すると、皇帝から「プロドウオイノエ・アルチステ」(帝室技芸員)の称号を授けられた。

 この称号で一座はさらに人気を集め、順調な巡業を進めていった。

 それから二年後、クリミア半島(ウクライナ南部)のヤルタで公演を進めていた一九〇四年、思わぬニュースが横田一座を襲った。

 〈露日、戦端を開く〉

 新聞の売り子が売り歩く号外に、大見出しが躍っていた。日露戦争の開戦が迫っていた。沢田のサーカス人生を狂わせ続けた戦争との、初めての遭遇だった。

 ≪出国状況≫ 長い鎖国政策を解いた徳川幕府は慶応二(一八六六)年、留学生や商人らの海外渡航を認める老中布告を発布した。

 日本人の出国が認められるようになると、海外渡航旅券の記念すべき第一号が、江戸神田相生町の隅田川浪五郎という芸人に発行された。外国奉行所発行の海外渡航旅券一号から十八号まですべて芸人で、東京・麻布の外務省外交資料館の旅券発給人名リスト『海外行人名表』に記録されている。

 隅田川は、アメリカ人興行師リズレー率いる「帝国日本芸人一座」の一員としてアメリカへ向かい、当時の大統領アンドルー・ジョンソンに謁見。イギリスやスペインにも巡業している。

 明治に入ると、パスポート発行記録は「外國旅券下付表」と呼ばれ、横田一座の団長・横田徳三郎らは、旅行目的を「遊藝」として、「長崎縣(けん)」発行の旅券交付を受けていた。

 しかし、後に沢田豊本人がブラジルの邦字新聞『日本新聞』に語っているように、沢田自身は「パスポートも持たずに」出国したもようで、外交資料館を訪れた私は、膨大なマイクロフィルムから、沢田のパスポート発券記録を見つけることはできなかった。

 幕末から明治にかけては、一八六七年のパリ万博興行で公演した「トリカタ・日本一座」の鳥潟小三吉ら多数の日本人芸人が、一攫(かく)千金を夢見て国外へ進出しており、「外國旅券下付表」の渡航目的は「移民」や「商用」などと並び、「遊藝」がかなりの数を占めている。


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