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日本人の足跡−沢田豊

第3回

以下は産経新聞のHP、産経Webからの転載です。


【日本人の足跡】
平成 13年 (2001) 4月22日[日] 先勝


日本人の足跡(88) 沢田豊(1886-1957)3


サーカス芸人
【運命的な契約】
ドレスデンで注目の的

 日露戦争(一九〇四−〇五)開戦の直前、沢田豊はロシア南西に位置するクリミア半島のヤルタにいた。敵国にいる身となった沢田ら横田一座だったが、すぐに脱出することはなかった。

 ヤルタは当時、モンゴル族系の少数民族タタール族の土地で、彼らはロシアに征服されたというイメージを持ち、ロシアに対して敵意すら抱くものも多かった。そのため、ロシアと戦う日本人に好意をもっていたという。彼らが、身の安全を守ってくれた。

 一方のロシア当局も「プロドウオイノエ・アルチステ」(帝室技芸員)という称号を持つ沢田らの処遇について、具体的な判断を下すことができないでいた。ロシアの新聞が伝える「連戦連勝」という報道も、当局に対して余裕を与えていたのだろうか。

 ところが、日本が旅順を攻撃したと伝えられると「電報はうそだ。戦争の結果は反対で、ロシアの連戦連敗である」という噂が広まった。これを聞いた当局は憲兵六十人ほどを横田一座のいるサーカス小屋に送り、捕虜として確保する命令を下した。

 ここで、タタール族たちが蜂起(ほうき)する。セバストポリという黒海の港町まで連行された一座を奪還し、ヤルタまで連れ戻した。

 「心配せずに公演を続けろ」

 彼らは一座に、こう言った。

 当局は再度、倍ほどの憲兵を率いて収監を試みたが、今度もタタール族千人ほどが待ち受けて、沢田たちを救い出した。だが、一座は結局、捕虜となる道を選ぶ。軍隊を繰り出す大作戦で街が混乱することを懸念したのだ。

 しばらくセバストポリで捕虜生活を送ったのち、座長の横田徳三郎は、監視の男にもちかけた。

 「どうだ君、知事をここに連れてくれば千ルーブルやるぞ」

 賄賂攻勢である。すると、さっそく知事が翌日現れた。知事には賄賂だけでなく、大演説を繰り広げた。

 〈吾人(われ)は藝(げい)人であつて軍人ではないから、戦爭とは無関係であることは貴下も知つて居られやう。殊(こと)に帝室技藝員たる我々が、斯(かか)る待遇を受けることは心外に思ふ。又斯(か)くの如く我々を牢に入れておいた結果、貴下は我々を殺す譯(わけ)にもゆくまい。然らば吾人が斯くして徒食するのは貴下の損失に終わるのみ。この際外國に一座を逃してはくれまいか。モーター付きヨットを一隻與(あた)えられるならば、三千ルーブルを與えやう〉(沢田が寄稿したブラジル・サンパウロの『日本新聞』から)

 知事もさるもの、二千ルーブル多い、五千ルーブルを要求してきた。交渉が成立し、豪華なモーター付きヨットでルーマニアの港町コンスタンツァに脱出した。

 一座はその後、トルコ、ギリシャ、エジプト、イタリアなどで約二年間の公演を続けた。そして一九〇七年、ドイツのドレスデンに本拠を置く「サラザニ・サーカス」と契約を結ぶ。

 沢田にとって、運命的な出会いとなる契約だったが、当時のサラザニ・サーカスはまだ、小規模なサーカス団に過ぎなかった。

 沢田ら横田一座がサラザニ・サーカスと契約を交わすことが決まると、日露戦争で「まさかの日本の勝利」が決まった直後ということもあってか、噂はドレスデン中に広まり、市民らが殺到した。

 沢田は、二十一歳になっていた。メーンプログラムは、ほとんど沢田が占めていた。人気の秘密には、日本人という物珍しさのほかにも、沢田の芸そのものへの評価や努力ももちろんあった。

「棒上頭倒立」の練習に励む沢田 沢田がよく披露したのは、竹竿(たけざお)を使った芸だった。高さ十二メートルの竹竿の上に逆立ちし、そこへ空中から降りてくる猿二匹を受け取って、両足の先で躍らせるという芸で、特に人気を集めていた。

 もちろん、荒業「棒上頭倒立」も人気の的だった。「棒上頭倒立」の激しい稽古(けいこ)では、頭頂部がへこんだ状態で頭皮が固まり、骨化するほどだった。第一次世界大戦後のことになるが、演技に失敗して病院に送られた際、医師はこれまで見たことがない臨床例として、死亡後の頭蓋(ずがい)骨の提供を申し入れた。

 沢田はこの依頼を断ったが、終生、このときの出来事を笑い話として、子供たちに語ったという。

 今年三月、私はドレスデンにいた。一九九〇年の東西ドイツ統一まで、東独に所属していた古都である。

 街の中央に、エルベ川が流れている。そのほとりには、十六世紀以降のザクセン王国の首都として栄えた面影を残すバロック様式の壮麗な宮殿や教会が立ち並んでいた。“エルベのフィレンツェ”といわれる所以(ゆえん)だ。

 一九一二年、サラザニ・サーカスは、この街の中心部に一万人を収容する常設サーカス劇場「サラザニパレス」を開設した。

 カローラ広場にある跡地には今、小さな記念碑が立っている。そして、広場に通じる道は「サラザニ・シュトラーセ(サラザニ通り)」と名付けられて、往時をしのばせていた。

 そのカローラ広場で、写真撮影をしていたときのことだった。

 「思いだすなぁ、あの大きなダンスホールを。小さいころ、よく見に行ったよ。でも、戦争で壊されてしまった。全部なくなった。あなたは知っているのか」

 七十歳になるという男性から、声をかけられた。男性の顔は、少年のように輝いていた。第二次世界大戦による一九四五年二月の空爆で破壊される前のサラザニパレスを、頻繁に訪れていたという。

 移動しながら同じプログラムを各地で公演するサーカス団が、常設劇場を設置するということは当時、極めて画期的なことだったのである。(奈良支局 田伏 潤)

 ≪サラザニ・サーカス≫一九〇二年、ハンス・シュトッシュ・サラザニによって創設された。当時は団長自らがゾウを調教してクラウン(道化師)として出演、妻のトゥルーデが馬と犬を調教するような家族サーカスだった。

 サラザニは一八七二年、プロイセンのロムニッツ(現・ポーランド)にガラス工場経営者の息子として生まれた。十五歳のときに偶然見たサーカスのとりこになって、サーカスへの道を進んだ。ドイツ東部のラーデボイルで旗揚げしたのち、ドレスデンに本拠地を移転。沢田豊ら有能な芸人に恵まれ、一万人を収容できる常設劇場「サラザニパレス」を建設するなど、サラザニ・サーカスを一大サーカスに育て上げた。

 植民地施策にまい進していた当時のヨーロッパでもてはやされていた「異国の珍しい原住民を見せる」という姿勢とは一線を画し、沢田ら日本人のほか、中国人やインド人、アラブ人ら外国人メンバーの芸を大切にし、「インターナショナルであり続けなければならない」ことを信条とした。

 沢田が、芸人の労組的存在だった「国際芸人協会」の理事だったこともあって、経営者である団長と沢田は反発し合う機会が多く、沢田はその都度、脱退したが、互いに尊敬し合い、親子のように付き合う関係は生涯、続いた。

 第二次世界大戦後、トゥルーデ夫人はアルゼンチンに亡命。「本家」は消滅する形となったが、名称を買い取った新しいサーカス団が、南部のマンハイムで「サラザニ・サーカス」を名乗っている。

≪沢田豊・年表≫

1886(明治19) 1月10日、愛知県で誕生

1891(明治24) 濃尾地震で祖父の住む東京・浅草へ寄宿

1902(明治35) ロシアへ。「帝室技芸員」の称号受ける

1904(明治37) 日露戦争勃発。ロシアのヤルタからルーマニアへ逃げ、トルコ、ギリシャ、エジプト、イタリアなどを公演

1907(明治40) ドイツのサラザニ・サーカスと契約

1912(明治45) 「サラザニパレス」開設

1914(大正3) 第一次世界大戦勃発


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