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ヤマサキ探しのヒント

ヤマサキ・キヨシ年表
日本人との接触


 今年の1月から加藤哲郎氏のホームページ『ネチズン・カレッジ』と共同で、モスクワでスパイ容疑のため粛清された日本人の元サーカス芸人ヤマサキ・キヨシに関する、情報を集めている。
 しかし2月末の時点で、いまだに一件の情報も寄せられていない。
 これはある程度予想されていたことではあった。大きな砂丘の中で、小さな石ころを探すようなことだということは、重々承知のうえである。
 何故ならば、ヤマサキ・キヨシと接触した日本人があまりにも少ないからである。そして接触したかもしれない人間は、ほとんど生存していないからだ。
 でもここで探索を諦めるのは、まだ早い。わずかであっても、まだ探す糸口は残っているはずだ。
 いまヤマサキの情報を求めているのは、彼が5才の時に去った日本という国の中でのことである。これを踏まえて、もう一度問題を整理しながら、その糸口を探してみたい。
 とりあえずは、調書をもとに、ヤマサキ・キヨシの年表を作成してみた。これを参考に彼のルーツ探しをしてみたい。

ヤマサキ・キヨシ年表

ヤマサキキヨシ 1 ヤマサキキヨシ 2

1900年 日本・東京に生まれる
1905年 サーカス団と共に入ソ
1912年 モスクワのニキーチンサーカスで働く
モスクワの日本大使館で、自分の父が海軍大尉で、日露戦争のときに戦死したことを知らされる
(それまでは自分の父や母のことは知らなかった)
1913年まで サーカス団で働く(ファイルナンバー10より)
1914年まで−ファイルナンバー25及び29
1914年 志願兵としてロシア軍に入隊(〜17年
1917年 赤軍に入隊( 〜21年
1921年 化学教育学校で6カ月学ぶ
  クラスナ・プレスネンスキイ地区の文書使として6カ月働く
1921年 モスクワの「1905年」車両修理工場で働く( 〜32年)
1922年−ファイルナンバー25による)
1924年−ファイルナンバー10による)
1922年 クラスナ・オクチャブリクラブに2カ月間在籍
1922年より
    2年間
共産党青年同盟−コムソモールに加盟、納付金未納のため退団
1924年 モスクワの日本大使館に出向く。日本のパスポートを発行してもらうため。
1927年 ソビエト共産党に入党
1929年−ファイルナンバー25による)
1930年 「1905年」車両修理工場で盗みの嫌疑を受け取り調べ
1932年33年 ナロフォミンスキイの織物工場の電気技師として働く(〜35年
1935年 ナロフォミンスキイ工場で「相応の地位を占めるコミュニストだけがよい暮らしができて、我々みんな暮らしも悪く、労働条件も悪く、食物もない」というアジテーションをした理由で、逮捕、取り調べを受ける
(盗みの疑いで逮捕−ファイルナンバー29より)
1935年 ソビエト共産党を除籍される
1937年  7月23日 逮捕
(逮捕時はナロフォミンスキイの住宅サービス部門の電気技師)
   7月23日〜25日 尋問
  12月13日 死刑判決
  12月19日 銃殺
1965年 10月 長男アレクセイより軍事法廷に父の消息についての照会状
1966年 10月 ヤマサキ・キヨシの名誉回復の決定

逮捕時 妻バラゲーヤ・ニキフォロブナ30才主婦、長男アレクセイ3才、次男ヴラジーミル4カ月の家族がいた

日本人との接触

1.家族

 1900年生まれのヤマサキが、日本で暮らしたのは、わずか5年である。当然のことながら彼には父親と母親がおり、幼年時代のヤマサキと接触していた家族がいるはずである。
 ただこの家族の名が、ヤマサキであったという保証はない。
 幼少の頃サーカス芸人になったものは、養子として一座の座長、もしくはグループの責任者に預けられことが多い。5才の時にロシアに渡ったヤマサキも、誰かに養子として預けられた可能性が高い。
 だからここでヤマサキという名前にあまりとらわれず、誰かサーカスの芸人としてロシアに渡った芸人が親戚や知人でいただけでも、情報を寄せてもらいたい。

2.サーカス団員

 これはまたあらためて書くことになると思うが、ヤマサキキヨシが所属していたサーカス団は、「ヤマダサーカス団」という一座であった。ここには25名近くの団員がいたことがわかっている。現在も生きている団員はほとんどいないとは思うが、だれか身の回りに、この時代ロシアに渡ったサーカス芸人の子孫が残っていないだろうか。

3.サーカスの観客

 ロシアに渡ったサーカス一座は、まずウラジオストックに着いたのち、極東からシベリアを巡業していた。当時ウラジオをはじめ、極東・シベリアにはたくさんの日本人が、暮らしていた。子供の時にでも、「ヤマダサーカス」の公演を見た人がいないだろうか。

4.モスクワ日本大使館に勤めていた人

 ヤマサキは1912年と22年と二回、モスクワの日本大使館を訪れている。この当時大使館で働いていた人の中で、ヤマサキを目撃した日本人は何人かいるはずだ。彼らはまだ生きている可能性が強い。
 当時ソ連に住む日本人はたくさんいたはずで、大使館員たちは、在モスクワの日本人のことを覚えているのではないだろうか。
 この大使館員たちが、ヤマサキキヨシの出自を知っている可能性は強い。

 とりあえずこの4つが、ヤマサキ探しのヒントとなるように思える。


以前の記事「ヤマサキを探す手がかり」
「アレクセイ・ヤマサキからの手紙」

ヤマサキ・キヨシについて、どんな小さなことでも結構です。ご存知のことがあったら是非お知らせください。

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