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特 集
レザーノフのオペラ

モスクワから投稿が舞い込むきっかけについて一言
新井滋氏プロフィール
ユノーナとアヴォーシ(新井 滋)

【観覧案内板】レザーノフ来航絵巻公開−『時を超えて語るもの−史料と美術の名宝』展


 突然ですが、今月号の特集はレザーノフをめぐる話題です。
 モスクワから特上の原稿が届きましたので、急遽レザーノフ特集を組むことにしました。タイミングよく、上野の国立博物館でレザーノフ来航絵巻も公開されるとのことですし、ずっと延び延びになっている「長崎通詞からみた日露会談の連載を終えて」もこの機会にアップいたします。
 なかなか中身の濃いレザーノフ特集になったのではないかと思ってます。


モスクワから投稿が舞い込むきっかけについて一言

 モスクワ在住の私の古くからの友人新井滋氏が、メールでレザーノフのラブロマンスをテーマにしたロックオペラの公演があるから、モスクワに見に来ませんかと誘ってくれたことがきっかけです。このロックオペラはすでに20年も上演されており、朝日新聞でも紹介されたことがあります。いつか見たいものだと思っていたのですが、最近はモスクワに行く機会も少なくなり、忘れかけていたときに新井氏のこのメール。といってもモスクワまで行く時間もないし、とりあえずは見て感想を教えてという返事を出してました。二週間ほど前に早速感想が送られてきました。なかなか面白そうだったので、デラシネ通信に投稿してとお願いしたところ、写真入りの力作エッセイが送られてきました。感想だけでなく、史実と照らし合わせての論考もあり、読みごたえがあるものになってます。『日本滞在日記』とはまたちがう、レザーノフの一面を知ることができます。

 このタイトルになっている『ユーノアとアヴォシ』に思い当たる方もたくさんいると思います。レザーノフが長崎での屈辱的な日露交渉をおえたあと、レザーノフの命を受け(といわれています)、エトロフなど北方の日本領土を襲撃した船の名前です。
 この事件をきっかけに、また日露間に新たな物語がはじまるわけです。つまりこの襲撃に対する日本側の報復としてのディアナ号艦長ゴローブニン幽閉、さらには高田屋嘉兵衛拿捕と、日露間にいっきょに緊張がたかまります。そしてその裏で、若宮丸漂流民のひとり善六が活躍する場が生れるわけです。
 こうした歴史背景を舞台にして書かれた小説が、司馬遼太郎の『菜の花の沖』であり、吉村昭の『北天の星』なわけです。しかしこのふたつの小説のなかでは、レザーノフも善六も決してよくは描かれていません。善六とレザーノフのふたりを軸に、新たな物語が出てきてもいいのではないかと、ひそかに思っているのですが・・・
 新井氏のこのエッセイを読むと、レザーノフはソ連解体と共に、ロシアで復権しつつあることは確かなようです。善六も復権させなくては・・・・


新井滋氏プロフィール

 執筆者の新井滋氏のプロフィールを簡単に紹介します。
 実は彼とは、私が前に勤めていた呼び屋さんの会社で2年ほど一緒に仕事をしていました。彼は大学卒業後すぐにこの会社に入ったのですが、ソ連のサーカスや劇団と仕事をするうちに、ロシア語がめちゃくちゃ巧くなり、さっさと会社をやめ、一流企業にトラバーユしてしまいました。実に正しい選択だったと思います。
 現在もモスクワで活躍中、私もロシアへ行くときはよくお世話になっています。
 12年間にもわたるモスクワ暮らし、デラシネの仲間であることはまちがいありません。モスクワ便りというコーナーをつくって、これからも執筆してもらうつもりです。


ユノーナとアヴォーシ

新井 滋

 デラシネ通信に登場するレザーノフ(1764〜1807)は、当然のことながら日本との関わりの視点から捉えられています。今回は趣向を変え、レザーノフを題材にした「ロックオペラ」についてです。
 まず、レザーノフとロック、しかも主な舞台がアメリカ・カリフォルニアであると言えば、それだけで何か「違和感」を持ったり、あるいは逆に「新鮮さ」を感じたりするかもしれません。タイトルは、「ユノーナとアヴォーシ」。元になっているのは、ロシアの詩人、アンドレー・ヴォズニセンスキー(1933〜)が書いた「アヴォーシ」というタイトルのポエムです。(アーラ・プガチョーワの「百万本のバラ」はヴォズニセンスキーの作詞。)

 今から20年以上も前の1978から79年にかけて、ヴォズニセンスキーの台本に、アレクセイ・ルィブニコフ(1945〜、映画やテレビドラマの音楽で著名な作曲家)が音楽をつけ、80年、ソビエトのレコード会社「メロディア」がオペラアルバムとしてレコーディングしました。しかし検閲により、そのレコードの発売は、直ぐには許可されませんでした。その録音の公開試聴会が、80年12月9日、モスクワのポクロフ教会で行われましたが、会場を提供した教会の責任者は聖職者としての地位が危うくなったといいます。当時、ロックは資本主義の悪徳を象徴するものであり、アメリカとの架け橋をつくろうというレザーノフの夢は危険思想でもあったのでしょう。レンコム劇場また、歌詞の中の「ロシア帝国は牢獄」というレザーノフのつぶやきは、当時のソビエト政権批判ともとれます。
 しかし、1981年7月8日、マーク・ザハーロフの演出で、モスクワのレンコム(レーニン・コムソモール)劇場で初めて上演されました。許可を取るのにかなりの苦労があったようです。
 今年、上演20年周年を祝いました。ロシアの劇団はレパートリー制で、毎日演目が替わりますが、過去20年の間、毎シーズン、「ユノーナとアヴォーシ」はレパートリーの中に組み込まれ、月に2〜3回上演され続けております。これまでの上演数は、ゆうに800回を超えています。チケットは相当運が良くないと取れません。それほど、ロシアの人々に愛されているのです。
 また、有名なデザイナー、ピエール・カルダンは、この作品に惚れ込み、1983から93年にかけて、パリ、アムステルダム、ハンブルク、アテネ、ニューヨーク等での公演を実現させたほどでした。

 さて、「ユノーナとアヴォーシ」というタイトルは、どこから来ているのでしょうか? これは、レザーノフも深く関わった「露米会社」所属の帆船、ユノーナ号とアヴォーシ号から来ています。
 それでは、もともとユノーナというのは? アヴォーシって何? ユノーナは、英語では Juno。第三小惑星のことで、むかし航海者のナビゲーション役になっていましたから、船名にはピッタリ。一方、アヴォーシとはロシア語で、運がよければ、うまくいくかもしれないという希望を込めた、「ひょっとしたら、もしかして」という意味の言葉です。うまくいくかどうか確たる当てがあるわけではないけど、他に代案があるわけでもないから、ええい、やってしまおう、どうにかなるさ、パスモートリム(= let's see)とは、ロシア人の行動様式の一つです。特にレザーノフの生きたスリルとサスペンスに満ちた時代は、アヴォーシの連続だったことでしょう。

 ソビエト・ロックオペラの記念碑的作品である「ユノーナとアヴォーシ」を、2001年11月17日、私はレンコム劇場で見る幸運にあずかりました。「アヴォーシ(=ひょっとしたら)、チケットが取れるかもしれない」と思ったら、本当に取れたのでした。ユノーナが私を導いてくれて、アヴォーシが現実になったということでしょうか。

 まず、ストーリーを追ってみることにします。ストーリー全体(上演時間:2時間)は5つに分けられます。
  1. プロローグ
  2. I.ロシア
  3. II.アメリカ
  4. III.帰途
  5. エピローグ

レザーノフ コンチータ レザーノフ役のニコライ・カラーチェンツォフ コンチータ役のアンナ・ボリショーワ
レザーノフ コンチータ レザーノフ役の
ニコライ・カラーチェンツォフ
コンチータ役の
アンナ・ボリショーワ

 レザーノフの妻アンナ(毛皮王・シェリホフの娘)は一男一女をもうけますが、1802年、2番目の子供である長女を産んでからの産後の肥立ちが悪く、亡くなってしまいます。
 この物語は、正侍従長・レザーノフ伯爵がアンナを弔うところから始まります。彼が牢獄と呼ぶロシア帝国から逃れ、自由な新天地を求める気持ちが募っていきます。どうせ無理と分かっていても、新天地への旅立を許可してもらえるよう皇帝への直訴を続けました。アヴォーシ、夢が叶うかもしれないから。
 そうした祈りを捧げるなかで、一個の女性に感じる情愛を聖母に向けてしまうほどの混乱とエクスタシーとが極限に達した時に、ルミャンツェフ商務大臣から出発許可の知らせを受けるのです。しかも、時の皇帝アレクサンドル1世がレザーノフの露米会社に出資すること、国家的使命を授けられたことを聞かされます。
 「1806年7月23日に出航せよ」

19世紀初頭のカリフォルニア 困難を極めた太平洋横断の航海を無事終え、レザーノフ一行はいよいよアメリカの西海岸・カリフォルニアに到達しました。当地に既に進出していた、スペイン・フランシスコ会(サン・フランシスコの由来)の要塞司令官ホセ・ダリオ・アルグエリオに出会い、 そこで、司令官の娘・コンセプシア(コンチータ)の16回目の誕生日の宴に招待されます。 寝室のレザーノフとコンチータコンチータのフィアンセ・フェデリコは、なぜか悲恋のソネットを歌います。レザーノフはといえば、一目で彼女に強く惹かれてしまいます。その夜、レザーノフは、コンチータの寝室に忍び込みます(いわゆる「夜這い」をしかけた)。愛を告白するだけでなく、彼女の操まで奪ってしまいます。この時、コンチータのなかでレザーノフへの愛が芽生えますが、レザーノフは後悔と自責の念にさいなまれます。

 この「事件」のあと、侮辱を受けたフェデリコは当然レザーノフに決闘を申し込みます。フェデリコを平伏させたものの、結局レザーノフは提督に退去を求められます。ルミャンツェフへの手紙のなかで、彼の遠大な計画が粉々に打ち砕かれてしまったと伝えるのでした。

 コンチータと結婚の約束を交わしたものの、ロシア正教徒とカトリック教徒との結婚はそのままでは認められません。ロシア皇帝とローマ法王に許可をもらい次第、すぐに戻ってくると言って、レザーノフは帰国の途につきます。しかし、コンチータはこの時、次のように歌います。

レザーノフとコンチータの別れあなたの出発が早ければ早いほど
二人は早く一緒になれるのね
でも、いかないでほしい
いや、早く出発しないと
愛しい人よ、いっそのこと私も連れていって
私が、船の帆になるわ
嵐が来そうな時は教えてあげる
あなたを失ってしまいそうな気がするの
・・・
あなたにはもう二度と会えない・・・

 それに答えてレザノフも歌います。

君のことは決して忘れない…

レザーノフの墓と記念碑。1932年、コンサートホール建設のために取り壊される。クラスノヤルスク コンチータの予感は的中します。クラスノヤルスク近くの村で、レザーノフは力尽きてしまいます。神に向かって自分の不運と不幸と嘆きつつ、彼は熱病にうかされながら息を引き取ります。コンチータは、レザーノフの安否を確かめる術もなく、帰りを待ち続けました。10年、20年、30年と時は過ぎ、知らせを受けたのが、別れてから35年後。コンチータは、その後、沈黙の誓いを立て、尼僧になって余生を過ごしたということです。そして、愛のハレルヤを背景にオペラはフィナーレを迎えるのです。

 冒頭、ロックオペラと紹介しました。各メディアは、このオペラを必ずロックオペラと名づけていますが、私には何となくしっくりきません。確かにエレキギター、シンセサイザー、ドラムスが生のロックを演奏しますが、全編がロックのリズムで貫かれているわけではありません。私の印象に強く残ったのは、ロシア正教の教会音楽(アカペラの合唱)と、ロシア伝統のロマンス(叙情的な歌曲)の旋律だからです。プログラムには、ソヴレメンナヤ・オペラ(コンテンポラリー・オペラ)と但し書きがありました。こちらの方がピッタリかもしれません。

 レンコム劇場でのロングラン、劇場中継録画のテレビ放映、レコード、CD、ビデオでの普及などのおかげで、ロシア人で、ユノーナについて全く知らない人はいないでしょう。それほど国民的な芸術作品です。たぶん、この筋立てがロシア人の心の琴線に触れるのでしょう。絶対ハッピーエンドではなく、愛し合う二人が訳あって別れざるを得なくなり、でも二人の心はいつまでもつながっている・・・ こうしたドラマがロシア人、特にロシア人女性を捉えているような気がします。しかし、レザーノフという一人の人間が歴史上に存在し、どのような背景・動機でカリフォルニアまで行ったのかまでは知られていないし、なおさら、日本との交易のために幕府との交渉を企てたなどとは、一般のロシア人はほとんど知りません。もっともこのオペラを楽しむために、絶対に知っておかなければならない、とは言えません。

 レザーノフについて詳しい方は、以上のストーリーや筋立てに疑問を持たれるかもしれません。しかし、時代考証に正確に則って、オペラの台本を書く必要もありません。あくまでも芸術作品ですから、史実を忠実に再現することが目的ではないということです。とはいえ、批判を覚悟でいくつか史実と異なる点を指摘してみましょう。

 まず、レザーノフは伯爵ではありませんでした。さまざまな文芸作品で彼は伯爵として扱われていますが、これは間違いです。貴族ではありますが、伯爵ではなかったのです。階級では、正侍従長であり、貴族の称号の世襲を許されていました。

 次に台本では、2つの航海を1つの航海として合体させています。ナジェージダ号とネバ号で出発した(1803年7月23日)世界一周の旅。これには、日本への寄航も含まれています。しかし、彼は途中で下船しています。もう1つの航海(1806年2月25日出発)は、ノヴォ・アルハンゲリスク(現アメリカ合衆国アラスカ州南東部の港町・シトカ)からカリフォルニアに向けてのもので、いずれにしても彼独自の計画でした。

注)* アラスカは、毛皮交易の国策会社「露米会社」(1799年正式に設立、1881年まで存続)の進出により、ロシア領となっていましたが、クリミア戦争での敗北などによる経済の疲弊(最近の研究では安全保障上の見地から)により、1867年、アメリカにわずか7千2百万ドル(当時のアメリカ連邦予算支出の20%)で売却されました。以後のゴールドラッシュ、油田の発見で、ロシアはさぞホゾをかんだことでしょう。レザーノフが、カリフォルニアに出向いた最大の目的は、ロシアの北西アメリカ開拓地(アラスカ含む)で飢えに苦しむ開拓民への食糧補給でした。日本との交易交渉もその一環であったことでしょう。レザーノフは、食糧補給を確かなものにするために、コンチータと「政略的に」結婚しようとした、といわれることもありますが、そのような無粋な推測はやめときましょう。さらに、歴史で「もし」は禁句ですが、もしレザーノフが首尾よくカリフォルニアに帰ってコンチータと結ばれ、露米会社の経営もうまく行っていたら、カリフォルニアの人々は今ごろロシア語をしゃべっていたのでしょうか??

更に「蛇足」を続けさせていただくと、

レザーノフとカラーチェンツォフ レザーノフ役のカラーチェンツォフ(1944〜)は、初演の時からこの役をやり続けています。寅さんを渥美清以外の人間が演じられないのと同様、この役とカラーチェンツォフは一体化しているといってよいでしょう。彼は、数々の名作映画に出演しており、ロシアで最も愛されている俳優の一人です。彼の人気も舞台のロングランに一役買っていることは確かです。

 20周年を記念して、ロシアのレンコム劇場とそのパートナーは、特別企画「ユノーナとアヴォーシ 舞台で20年」で、ユノーナのテレビ映画を製作中です。時代は変わり、ロシア大統領府もこの企画を後援しています。

レザーノフの記念碑記念碑の除幕式 最後に、ひとつ後日談を紹介しましょう。
1932年、それまで墓と記念碑があった場所にコンサートホール建設をするというので、レザーノフの遺骨は、同じクラスノヤルスクのトロイツキー(三位一体)霊園に移されました。同霊園で2000年10月28日、レザーノフの記念碑の序幕式が行われました。十字架の形をした記念碑の碑文に、「ニコライ・ペトロヴィッチ 1764〜1807年 君のことは決して忘れない・・・ 」とあり、その裏側には、「マリヤ・コンセプシオン・デ・アルグエリオ1791〜1857年 あなたにはもう二度と会えない・・・」

 「君のことは決して忘れない、君にはもう2度と会えない」は、ロシア人ならだれでも知っている、オペラの中で一番有名な歌詞の一節です。(実際に聞いていただかないと、その余韻は伝わらないですが)除幕式には、アメリカ・カリフォルニア州・モンテレー市の代表ハリー・ブラウン氏が出席しました。彼は、コンチータの墓の土をレザーノフの墓にまき、同様のことをコンチータの墓でするために、彼はレザーノフの墓の土を持ち帰ったとか。


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