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今月のトピックス
文化二年長崎日露会談の裏舞台を見る
−通詞たちから見た日露交渉−

最終回 レザーノフ帰国と通詞日記のその後

再び贈答品をめぐって
最後の工作
帰国の途へ
通詞日記のその後

再び贈答品をめぐって

 文化二年三月十八日午前中、ロシア船の荷積みが完了した。いつ出発できるか聞かれたレザーノフは、先の会談での日本側の回答をオランダ語に翻訳した文書をもらえれば、その翌日にでも出帆できると答えていた。
 そしてこの日の午後五時、通詞目付三島と大通詞名村の二人が、梅ケ崎にレザーノフを訪ね、翻訳文書を手渡す。レザーノフは、この文書に、何度も依頼していた日本のどこかにロシア船が漂着した時に、保護を保証する文面がないことに、激怒する。しかしふたりから、江戸に伺いをたてなければならないことなので、横文字にできなかったが、御教諭を見せれば保護されると説得され、やむなくこれを認めている。
 このあとレザーノフは、明三月十九日に長崎を出帆することを告げた。
 この時レザーノフは、通詞たちに石製の各種茶碗やビロードなどの織物を贈りたいと申し出た。レザーノフの日記によればこの時通詞たちは「こんなことをしないでもらいたい。あなたは私たちを死においやるつもりなのですか」と激しく拒絶の意を示したという。
 レザーノフからすれば、先日通詞たちからということで、贈り物をもらっていたので、その返礼という意味もあったのだと思う。自分だって通詞たちからの贈り物をもらいたくはなかったのだが、受け取りを拒否されると、各方面に迷惑がかかると説得された経緯もあったので、きっと受け取るだろうと踏んでいたようだ。しかも茶碗を入れる箱がなくなってしまい、持ちかえるのに困っていたので、もしも受けとれないのであれば、日本側で処分して下さいと付け加えていたので、よもや拒否されることはないだろうと考えていた。
 しかし通詞たちからすれば、この贈り物の申し出は、まずかったのである。
 ふたりは奉行所に戻り、池田にこの件を内分に報告している。
 通詞日記では、この時ふたりが、レザーノフから贈答の申し出があったが、これについては受けとれないと拒否して欲しいこと、箱がないと言っているので長持ちを手配するように進言していることになっている。
 翌朝奉行所から通詞のひとりに来るよう指示があり、名村が出向いた。ここで彼は、奉行所よりこの贈答品を受けとれないという正式回答をもらう。
 「通詞どもへ贈り物いたしたく段申し出候由、懇切の段は過分に存じ候えども、先だっての贈り物でさへ、差し免じがたきところだったが、申立てられ候の事ゆえ、別段の訳をもって受け入れたものである。しかるに又このように申し儀は、江戸へ伺わなくては、差し免じがたきもの。たとえ伺い候とも決して御免無きこと。通詞どもも却って迷惑致し候儀」
 おそらく通詞たちは、レザーノフが既に一回贈り物をしているのに、また贈り物をしたいと言ってきている裏には、通詞たちがレザーノフに対して、なにか便宜をはかったからではないかと、奉行所が疑いを抱くことを恐れたのだと思う。ここはあえて、自分たちから拒絶の姿勢を明らかにしておいたほうがいいのでは、という判断が働いたのではないだろうか。
 この結果は出発前に、レザーノフに知らされるのだが、彼は日記に「自分の失敗を見て私はとても悲しかった。(中略)大通詞たちはずいぶんとさびしそうだった。彼らが言うには、贈り物が拒否されたことで悲しんでいるのではなく、自分たちと奉行ふたりになにか嫌疑がかけられているのではないかと心配になったという」と書いている。
 奉行所からレザーノフに便宜をはかったように嫌疑をかけられることを恐れていたことが事実で、しかもレザーノフの言うようにほんとうに通詞たちが、さびしそうであったのなら、彼らがどこかやましいところがあったからではないだろうか。そしてそれは秘密工作を彼が本当にレザーノフにもちかけていたことを暗示しているように思えてならない。

最後の工作

 名村は、朝奉行所に出向いたとき池田に「掛かり目付、大小通詞暇乞いとして梅ケ崎迄罷り越し候儀」をわざわざ伺いをたてている。ここで池田から、沖に出て錨を下ろすまで、立ち会うように指示を受けた通詞たちは、早速梅ケ崎へ向かっている。
 レザーノフの日記を読むと、ここで通詞たちは、秘密工作の最後の詰めを行っていることになっている。
 彼の日記では、朝九時半梅ケ崎にやってきた大通詞たちは、ずるがしこい大名が死んだ時、もしくは何か変化があった時には、オランダ人を通じて手紙を書くので、その時はバタヴィア経由でロシア人を長崎に送り込むこと、そしてタイミングを見て、松前に再度来日してほしいと計画を打ち明けてたことになっている。これを聞いたレザーノフは「彼の助言に対して礼を言った。そして彼らの計画が起こりうることだと思った」と書き留めている。
 通詞たちがレザーノフのもとを訪れる許可を池田にわざわざ求め、その理由を暇を告げるためだと言っているのは、レザーノフと直接会う口実が欲しかったからではないだろうか。検使たちと一緒の時ではなく、レザーノフとさしで会い、この計画を最終的に両者で確認したかったのだと思う。
 レザーノフの日記によると、十時には筑前藩の役人がやってきて、出発の準備が整ったことを告げに来たとあるから、通詞たちとレザーノフの最後の密議はおよそ三十分の、慌ただしいものだったことがわかる。ただこの時レザーノフは、彼らの秘密工作が起こりうることだと信じたわけで、通詞たちにとっては意味のある会談だったといえる。

帰国の途へ

 レザーノフたち一行は、検使の前にそろって滞在中の世話に感謝の意を述べたあと、警護の番人たちにも礼を述べ、筑前藩が用意した関船に乗って、ナジェージダ号に向かう。
 ナジェージダ号には、村田、原田、小倉、矢部、鈴木の五人の本船御出船検使が先に乗り込み、レザーノフを迎えた。
 ここで検使は、石橋を通じて、預かっている武器は沖で渡すこと、来航した時二度目に停泊した神の島沖に錨をおろすよう指示した。これに対してレザーノフは、沖に出る前に武器を受けとりたいこと、以前オランダ船が帰る時に、神の島沖で座礁しかけているのを見ているので、その安全性を確認している。この結果武器は番所の前を過ぎたところで引き渡すことになった。錨をおろす場所についても、遠見番に確認させたところ、神の島沖は波もないということなので、ここに留めることが決定された。
 午後二時神の島沖に錨を下ろしたナジェージダ号は、ここで武器や、新鮮な食料や、子豚のつがい、蜜柑などを積み込んでいる。この積み込みを見届けたあと、検使たちと通詞たち一行は、レザーノフに別れを告げることになる。自分の船室に戻っていたレザーノフのもとに、検使と通詞たちが、あいさつにやってきた。レザーノフは彼らを見送るために、デッキまで同行し、検使たちにあいさつをし、帰ってから奉行と目付けに厚く御礼するように伝えた。
 目付の三島をのぞいた通詞たち全員は、港に戻ったあと、高島のもとに、出帆の報告をした。
 翌二十日朝五ツ時ナジェージダ号は錨をあげて、帰国の途についた。

通詞日記のその後

 レザーノフの日記は十九日神の島沖で錨を下ろしたところで、終わっている。通詞たちの日記は、二十一日が最後の記述になっている。ここには「今暮方帆影見隠し御注進これあり。附り南風にて五島沖乗通り候由に御座候。御奉行様、御目付様出島御巡見これあり。立山御役所に御諭し書小訳書付差し出し候こと」とある。そして小訳としてロシア語五十一語の訳が付けられている。
 ただこの日記には付紙としてロシア船来航に関して、このあとのいくつかの出来事が書き足されている。
 ひとつは、この日記の一冊を書写したものを年番所に文化二年八月十一日に届けていることと、もうひとつの出来事としては、今回のロシア船来航の通訳に対しての褒美について細かい報告であった。
 そして注目すべきことは、レザーノフ来航から三十年たった一八三二年(天保三)十一月に、あることの確認のためにこの日記が取り出され、検められていたことである。
 十一月二十三日役所から呼び出しを受けた年番の名村元次郎は、二十五日までに急いで以下のことを調べてもらいたいと依頼される。
 「文化之ロシア使節レザノト帰国の節、日本地北海回りいたしたく相願候ことこれありかな、取調のこと」
 これに対して名村は御用人陶山作兵衛に三つの書類を提出した。この一通目には、帰国の時に日本近海でロシア船が難破したときは、御教諭を見せること、二通目は、ロシア船が日本に漂着した時は長崎に送りバタヴィアまで送り届けるので、万が一日本人がロシアに漂着した時は、同様にオランダ本国か、バタヴィアまで送り届けて欲しいこと、三通目は、ロシア人が話していた帰国の道のりとして、来たときはカムチャッカから、琉球、薩摩を通ってきたが、帰りは風にしたがい、朝鮮と対馬の間を通り、西北を進みカムチャッカへ向かうこと、が書かれてあった。そして取り調べの目的である「帰国の際に北海を回りたいという特別な願いが出ていたということは、ないと答えている。
 これがこの通詞日記、『魯船滞船中日記』の最後の記述であった。


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