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クマのコスモポリタン紀行

第11回 下北・函館の旅

【後編】函館の旅−長谷川濬・幻影の函館を追って

承前

2007年9月1日

佐井の港から函館を望む(クリックで拡大)
佐井の港から函館を望む(クリックで拡大)
イカつり船(クリックで拡大)
イカつり船
佐井の浜辺(クリックで拡大)
佐井の浜辺
昆布干し(クリックで拡大)
昆布干し

 7時すぎに目が覚める。カーテンを開けると真っ青な空。家で調べたとき天気予報では今日は曇りのち雨だったのだが、一日前倒しになったようだ。朝飯を食べる。昨日も感じたことだが、ご飯が美味しい。糖尿病患者がご飯のおかわりなどしてはいけないのに、この美味しさに負けて、おかわりしてしまう。自分の他に7〜8人宿泊していたが、みんな仕事で長期宿泊している人らしく、もう朝飯を食べ終えて仕事に出かけていた。
 廊下の窓から函館が間近に見えるのにちょっと驚き、じっと見つめていたら、掃除にきた女将さんが、「この前先日ここに泊まった函館市のお偉いさんが、この景色を見て、なんか函館を覗き見されているようですねと言ってましたよ」と声をかけてくる。確かに。それだけくっきりと函館がここからは望むことができる。女将さんの話だと、9月から10月にかけて、一番きれいに見えるらしい。

 大間行きのバスが出るまで時間があったので、近くを散歩することにする。昨日見学した多賀丸遭難碑のすぐそばに、津軽海峡文化館(アルサス)がある。ここは青森と下北を結ぶ定期船の港にもなっている。南部慶祥丸の出身地牛滝の港にも寄港するらしいし、次回佐井に来るときは、青森から船で来るのもいいかもしれない。
 この近くに小さな漁港があった。電球がぶら下がっているイカつり船がならんでいる。近くの砂浜で、昆布を干していた。こうした佇まいの港を見るのは好きだ。長谷川濬を追いかけて旅をすると、いつも港や海にたどりつく。やはり長谷川濬は海の人なのである。
 バスの出発時間が近づいてきたので民宿に戻ると、女将さんが大間まで車で送ってくれるという。ありがたい。車で大間が崎に案内してもらった。大間はまぐろで有名になったが、みるところはここぐらいしかなく、お土産屋さんがあるだけだった。大間と佐井は隣町なのだが、女将さんの話だと、あまり仲はよくなく、佐井の人たちは大間の人たちのことを「大間もん」と呼んでいるらしい。ここで降ろしてもらうと思ったのだが、他に見るところもないし、フェリー乗り場までは遠いというので、言葉に甘えてそのままフェリー乗場まで送ってもらう。女将さんにはすっかりお世話になった。佐井にはこれからも何度となく来ることになると思うが、またこの芳栄丸の宿に泊まることにしよう。

 11時40分発のフェリーが、ちょうど埠頭に到着するところだった。折り返し出航する準備の間、埠頭に立ち、海を眺める。海辺に立ち、風に吹かれると、なんとなくいま自分は旅をしているんだなという実感がわいてくる。正直言ってこの夏は、仕事で数多くの失敗をし、まさに絶不調、打ちのめされることが多かったのだが、こうして風にあたっていると、そんなことを忘れ、旅情にひたることができる。この旅に誘ってくれた濬さんに感謝しなくてはならない。

大間が崎(クリックで拡大)
大間が崎(クリックで拡大)
函館と大間を結ぶ定期フェリー
函館と大間を結ぶ定期フェリー

 乗船開始の案内が流れ、いよいよ乗船。今回の旅の目的は、洋上から函館を見ること、客室にはいかずにデッキに座りこみ出航を待つ。出発の合図がなり、錨が外され、埠頭を離れる時、何故かわからないが、なにか胸にこみあげてくるものがあった。年甲斐もなく、新しいことに出会うための船出というセレモニーに酔ってしまったのだろうか。もしかしたら20歳の時カムチャッカに向かって函館をあとにした濬さんの気持ちの昂りが乗り移ってきたのかもしれない。ただ船に乗って、間近に見える函館に向かうだけなのだが、なにか大きく一歩足を踏み出すような感じがする。船は白い波をかきわけ津軽海峡の海原にゆっくりと入っていく。デッキの手すりのところに立ち、前を見据える。そこには函館の街があった。

 津軽海峡をなんども船で通った長谷川濬はどんな気持ちで函館を見たのだろう。大間の港から船が出航して、函館はどんどん近くなってくる。飛行機が着陸態勢に入るのも見えて来る。あの方向が湯の川温泉近くにある空港であろう。函館は、函館山を頂点にして、扇状に海岸線に細長くひろがり、奥行きはあまりない。船はまっすぐ函館に向かっている。いつも正面に函館があり、函館は近くにせまってくる。長谷川が乗った船は、函館を横に見ながら、津軽海峡をゆっくりと航行していたのであろう。彼が少年の頃よく泳いだ立待岬も、船からはっきりと見える。中学時代に住んでいた家は、立待岬の奥にあったが、よく遊んだ尻辺(しりべ)浜も目をこらせば見えたはずだ。津軽海峡をとおるたびに、長谷川が何度も何度も繰り返し、立待岬の思い出を日記に書いていたことを思い出す。彼がここを通ったときは、朝だったこともあったし、雨の日もあったし、深夜の時もあった。彼はきっと、いまの私と同じようデッキの手すりをつかみながら、函館の街を、そして立待岬をじっと見ていたのであろう。

洋上から見える函館山(クリックで拡大)
洋上から見える函館山(クリックで拡大)
右の岬が立待岬(クリックで拡大)
右の岬が立待岬(クリックで拡大)
函館ドックが見える
函館ドックが見える
まもなく函館港に到着
まもなく函館港に到着

 およそ1時間半の船旅の間ずっと、函館だけを見ていた。函館山を右にゆっくりまわりながら、船はフェリー乗場へと向かうと、まったくちがう風景が現れて来る。函館ドックが、山のふもとに見えて来た。私は確実に函館の町へ近づいている。しかし長谷川の目的地は、函館ではなく、サハリンであり、ナホトカであった。函館がゆっくり視界から去っていくとき、彼の胸にこみあげていたものはなんだったのだろう。二度と踏めない函館の地、そしてもう戻らない幼年・少年時代。それを長谷川は洋上から眺めるしかなかったのだ。海の向こうにある函館の遠景の中に、かつてそこで暮らしていた自分、そして兄弟や父や母、初恋の人、親友の姿を確かにとらえられていたはずだ。函館の街を実際に歩くのではなく、遠くから見ることによって、かえって50年以上前のことを生き生きと思い起こすことができたのかもしれない。まさに長谷川濬にとって函館は、「故郷は遠くにありて思うもの」であった。
 彼が残した晩年のノート、息子の寛さんが99とナンバリングしたノートは、函館の思い出を散文詩のかたちで書き綴ったものだ。彼の名を文学史にわずかに残す満洲時代の訳業、バイコフの「偉大なる王」のあの文体のリリシズムと叙情が、見事に蘇っている。私は、この未発表の作品こそが、長谷川濬の最高傑作だと思っている。この函館散文詩に描かれている濃密な函館の風景と心情は、洋上からながめるしかなかった函館、近くにあるのに立ち寄ることができない函館への切ない思いが昇華されたものだと思う。だからあれだけ美しい文章になったのだろう。
 船はゆっくりと函館の埠頭に近づき、そして錨を下した。わずか一時間半あまりの船旅であったが、やっと念願であった函館を洋上から見ることができたことで、心は満たされていた。

 陸へ降り立つと、汗ばむくらいの暑さである。バスで函館駅へ向かう。さっきまで洋上から見ていた函館の地を移動していることが、不思議であった。駅近くのホテルにチェックインしてから、市電に乗って谷地頭に向かった。洋上からずっと眺めていた立待岬をめざす。ここは神彰の墓があるところで、何度も通ったところなのだが、今日はまっすぐ立待岬に向わず、反対の道をゆく。長谷川濬が晩年日記に書き留めた函館散文詩に出てくる碧血碑を見たかった。函館山のふもとにある函館八幡宮の奥にあるらしい。まずは神社に参詣する。後ろを振りかえると、尻辺の浜辺が望むことができる。今日から九月になったとはいえ、この異常気象で、温度はどんどん上がっているようで、汗が吹き出してくる。

神社の坂から見下ろすと海が見える
函館八幡宮の坂から見下ろすと海が見える
碧血碑(クリックで拡大)
碧血碑(クリックで拡大)

 長谷川濬は元町の家が焼けて、谷地頭に家を新築して引っ越している。神社の近くには古い家屋が立ち並んでいたが、もしかしたら彼の家はこの近くにあったのかもしれない。確か函館散文詩の中で、家の庭にアカシヤの木があり、いつもこの木の下で、初恋の相手から来た手紙を読んでいたと書いていた。丁寧にアカシヤの木がある家を探せば、彼の家も見つかるかもしれない。如何せん情けないことにアカシヤがどんな木なのかを知らない。来る前に樹木図鑑を調べておけばよかったと思っても、後の祭りであった。
 碧血碑は、鬱蒼とした森の中にひっそりと建っていた。この碑は箱館戦争で亡くなった旧幕府側の戦死者を弔う墓である。賊軍の慰霊をしてはならないという命令があったのにも関わらず侠客の柳川熊吉が不憫に思い、街中に放置されていた遺体を回収し、埋葬した。この明治政府に歯向かう行為により、柳川は死罪を宣告されるが、政府軍の薩摩藩士が、柳川の毅然とした態度に感銘し、釈放したという。なかなか骨がある人がいたものである。あたりには季節外れのあじさいの花が咲き乱れていた。この碑にふさわしい佇まいであった。ここから立待岬へ抜ける道があった。ここを通って、洋上から見た立待岬に立ってみる。相変わらず観光客が多い。さっき出航した大間の港がはっきりと見える。

長谷川淑夫の碑(クリックで拡大)
長谷川淑夫の碑(クリックで拡大)
神彰の墓から見下ろすとしりべの浜
神彰の墓から見下ろすと尻辺の浜

 立待岬をあとにして、坂道を下る途中に、濬の父親淑夫の碑が建っている。濬はこの碑の裏側に、父が詠んだ烏の歌が彫られていると書いている。何度かこの碑を見ているのだが、もう一度裏側に回ってこの歌を確かめる。確かに烏という字は読めるのだが、磨耗が激しく全文は確認できなかった。ここから数十歩のところに、石川啄木の墓があり、さらにそこから数歩のところに、神彰の墓がある。もう何度も通った道である。神さんの墓参りをする。かつてアートフレンドの社員であった横岩さんと森さんと墓参りをしたのは、去年の七月であった。花は供えられていなかったが、相変わらずきれいに掃除されている。ここから濬が中学時代海水浴をしていた尻辺の浜辺はすぐ間近に見下ろすことができる。濬さんと神さんは、とても近いところにいたのだと思う。正反対の人生を歩き、性格もまったく違うふたりであったが、磁石のように互いの存在に引き寄せられていたのではないだろうか。

 ここから歩いて末広町の函館文学館に向かう。ここの一階は、函館出身の作家を紹介しているのだが、一番奥に長谷川四兄弟のコーナーがある。長兄海太郎と四男四郎が残した書籍の多さに比べて、濬が残したものはわずかに、バイコフの「偉大なる王」の訳本だけである。今度ここへ来るときはもう一冊彼の著作が展示されるはずだ。
 長谷川濬のノートを次男の寛さんからお借りして、その中の一冊晩年に彼が函館への想いを綴った詩やエッセイを読み、私は心を動かされた。なんとか本にできないだろうか、最初に相談したのは、昨年「神彰とアートフレド」展を主催してくれたはこだて写真図書館館長の津田基さんだった。昭和初期の函館を撮影し続けてきた熊谷孝太郎の写真を発掘し、「はこだて記憶の街」と題した写真集を出版した津田さんは、熊谷の写真も入れながら、これを本にしましょうと即座に決断してくれた。長谷川濬の白鳥の歌ともいえるこの文集は、本になることになった。
 私の今回の旅の終着点は、はこだて写真図書館である。ここで本にするための最終的な打合せをすることになっていた。しかし数日前に津田さんからメールが届き、やむを得ない事情で、いまいるところから引っ越さなければならないということを知った。津田さんと、津田さんの盟友で、ここの創立者でもある大日向さんは、自力でこの図書館を立ち上げ、公の援助を受けずに運営してきた。ここを出なくてはならないというのは存亡を問われる一大事である。長谷川濬の本を出版するどころではないはずだし、いままで守ってきた拠点を奪われてしまい、かなり落ち込んでいるのではないかと心配しつつ、午後五時過ぎにはこだて写真図書館にたどりついた。
 眉間に皺を寄せ、暗い顔をしているのではないかとおそるおそる津田さんの顔を見ると、落ち込んでいるかと思ったらそうでもない、憑き物がとれた、というか半ば放心状態の表情だった。
「大島さん、今朝、引き受け先が決まっちゃったんですよ。いや拍子抜けというか、ほっとしたというか、でも良かった・・・」
 私もホッとした。というかうれしかった。津田さんと大日向さんの地道な活動が実を結んだのだろう。長谷川濬の散文詩の出版についての打合せにも熱が入って来る。

 今日はお祝いもかねて飲まねばなるまい。津田さんに導かれて写真図書館の近くにある暖簾も看板もかかっていない、事務所のようなところに入る。会員制というわけではないが、身内だけが集う店らしい。ワインと酒しかないということなので、ワインを一本、日本酒を一升飲み明かす。料理がめちゃめちゃうまい。いくらとられるんだろうと思ったら1万2千円というのにびっくり。
 締めに焼酎をということで、店を変える。当然のことだが、相当酔っぱらっていた。でも実に心地よい酔いだったことは言うまでもない。


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