石巻若宮丸漂流民の会
Top 記 事 お知らせ 会のご案内

「レザーノフと日本展」(仮称)に向けて
−ティレジウスのアルバム−

2002.07.01

ティレジウスについて
「世界一周の地図」とティレジウスのスケッチ

 スケッチ

ティレジウスの肖像とプロフィール(ロシア語)こちら


 「レザーノフと日本」展という企画を思いついてから、この展示会のなかで、何が目玉になるのだろうと資料をいろいろあたっているうちに、浮かび上がってきたのが、ティレジウスのスケッチだった。
 加藤九祚氏の「初めて世界一周した日本人」のなかに、ナジェジーダ号が長崎に寄港した時のスケッチが何枚かおさめられている。写真で撮ったように正確な筆致で描かれたこのスケッチは当時の長崎湾内や、レザーノフ達が半ば幽閉されていた梅が崎の様子、さらには日本の役人の姿をいまに伝える第一級のビジュアル資料である。この原画を展示できないだろうかと思いついたのだ。しかしこのこの原画はいまどこにあるのか、まずそれを調べる必要があった。
 モスクワの頼れる友人ナターシャにさっそく調査を依頼したのだが、彼女はいとも簡単にその場所をつきとめてくれた。かつてのレーニン図書館、国立ロシア図書館にティレジウスのアルバムが保管されているというのだ。そしてここで出版している『東洋コレクション』という機関誌でティレジウスのアルバムについての紹介論文が掲載されていることもわかった。
 ここではエカテリーナ・バルシェーヴァ、イリーナ・フォメンコの両名によって書かれたこの小論文「ティレジウスの二冊のアルバム」をもとに、ティレジウスと、このアルバムについて紹介していきたい。

ティレジウスについて

 ゴットフリ・ティレジウス・フォン・テレナウは、1769年ドイツのミュールハウゼンで生まれた。ライプチヒ大学で哲学と医学を学ぶ一方で、ドイツでも絵画と彫刻では、権威のあったライプチヒ芸術アカデミーで、絵画も学ぶことになる。1795年にティレジウスはポルトガルに小旅行しているが、この時すでにスケッチ入りの興味深い報告書をまとめていた。1797年に哲学、1801年には医学の博士号をとっている。医学では、皮膚、性病、眼科を専門としていた。
 1802年秋ティレジウスは、ロシア初の世界一周周航計画を進めていたルミャンツェフ商務大臣から派遣された使者と会い、この遠征に自然科学者として参画する契約を交わす。
 ロシア初の世界周航遠征には、日本との通商交渉、ロシア領アメリカの調査、中国広東貿易の可能性調査など国策上の重要なプロジェクトがいくつか含まれていたわけだが、この他に、学術調査も遠征の目的のひとつになっていた。
 ロシア科学アカデミーは、「新しい調査と学術的発見によって人類の知識をより広くするため」に、「動物学、植物学、鉱物学について有名な学者にその調査を依頼する」という訓令をだしていた。地球のさまざまな地域を総合的に学術調査をするという国家的プロジェクトのなかで、もっとも大きな意義を与えられていたのは、航海中に出会うさまざまな民族について詳細な情報の収集、北方のロシア領の居住民についての調査だった。ティレジウスには、主に民族的な歴史の諸問題についての調査をするように訓令が出されていた。この他にも衣類、武具、装飾品、台所用品、楽器などの収集、民俗的な儀礼などをスケッチすることも任務のなかに含まれた。
 こうした学術調査は、前述したようにルミャンツェフが中心になって進められていたが、ヨーロッパの学者を遠征に参加させるよう進言したのは、ナジェジーダ号艦長となるクルーゼンシュタインであった。この結果ティレジウスの他に、チューリッヒ生まれの天文学者ホルナー、ゲッティンゲン大学の医者ゲオルグ・ゲンリッヒとラングスドルフが参加することになった。この四人のなかでのちにもっとも有名になるのはラングスドルフであったが、彼は、三人の学者がロシアと契約したあと、ロシア船の世界一周遠征を知り、急遽最初の寄港地コペンハーゲンに向かい、レザーノフに直談判して、しばらくは無給を条件に遠征に参加することになった。加藤氏の「初めて世界一周をした日本人」によると、ティレジウスと仲はしっくりいかなかったという。
 ティレジウスのスケッチを描くその才能は当初から高く評価されていた。レザーノフも航海日誌のなかで、ティレジウスが魚をスケッチした時のことをこう書きとめている。

(1803年9月1日)
「ティレジウス氏は、この時私の前で自らのスケッチの才能を示してくれた。彼は魚をまるで生きているかのように鮮やかな色彩で描いてみせた。その出来ばえは、すぐに色を失ってしまった本物にとってかわるだけの素晴らしいものだった」

 彼のスケッチのしかたは、レザーノフも舌を巻いたその正確さに特徴があったわけだが、ただ正確であっただけでなく、遠くからまた近くからとさまざまに変化をつけて岸辺を描いたり、記録に残す必要があるすべてのもの、衣類や建物、風俗、台所用品など克明に描いていた。航海中は一日中海洋調査をし、停泊中は植物、動物、鉱物、地形の調査をし、ひとときもアルバムをはなさず、スケッチし続けていた。
 この二冊のアルバムが、現在ロシア国立図書館に保管されている。このアルバムは小型で、表紙は褐色の皮でできている。このなかには、鉛筆や水彩やペンで描かれた、カナリア諸島、マルケサス諸島、ブラジル、日本、サハリンといったエキゾチックな土地を描いたスケッチがおさめられている。
 ひとつひとつのスケッチには、ドイツ語でコメントがつけられている。
 ティレジウスが生きていた時代のヨーロッパ絵画は、バロックの影響を受けていた。レザーノフ以前に南洋を航海したクックの探検にも絵描きが乗船していたが、そのスケッチは、その影響を受け、南洋の島民たちを写実的に描くのではなく、華美に粉飾していたのだ。
 クルーゼンシュタインは、ティレジウスのスケッチについて「ディテールを描く時の、科学的なアプーロチからの綿密さ、正確さが見事に総合化されていた」と書いている。

「世界一周の地図」とティレジウスのスケッチ

 クルーゼンシュタインの「世界一周」が刊行されたことによって、この世界一周遠征の包括的な報告がなされることになった。名著として誉れ高いこの本は、世界各国で多くの版を重ねることになるが、第3版ではこれに参加した学者たちの研究成果も取り入れられることになり、ティレジウスの「音楽について」と題された論文も掲載された。これには人食い人種の歌の楽譜とスケッチが添えられた。(この論文と一緒に『東洋コレクション』に掲載されている)
 しかしこれらの本には挿絵が含まれておらず、世界一周遠征の成果をすべて網羅しているとはいえなかった。そこで「クルーゼンシュタインの世界一周地図」(以下アトラス本)というタイトルのもとで、地図だけでなく、訪れた場所の風景、民族学的なスケッチなどが含む本の出版が準備されることになった。
 この挿絵のほとんどは、ティレジウスのスケッチをもとに作成された版画であった。クルーゼンシュタインは、この本がティレジウスとの共同作業のもとでつくられたものだと語っている。
 このアトラス本は、現在でも学問的な価値、芸術的な価値を失っていないが、その多くはナチュラリスト、ティレジウスが航海中に描き留めたスケッチに負っている。
 このアトラス本のなかでも学問上もっとも価値があると思われるのは、マルケサスで描いたスケッチである。クルーゼンシュタインが巨人の島と呼んだマルケサス諸島で、ティレジウスはその才能を遺憾なく発揮することになる。民族学的に価値の高い、モアイの像や、聖堂と墓場、さらには乗組員を驚かせた人食いの習慣を裏付ける、頭蓋骨や、殺された敵の首などがここにおさめられている。
 マルケサス同様貴重な資料となっているのが、日本のスケッチである。

 「レザーノフの外交交渉は失敗におわり、ロシア使節は厳しく孤立させられたのにもかかわらず、乗組員たちは日本についての情報を残すために、一連の試みを行っている。ナジェジーダ号が長崎に到着したとき、使節の居住地となったところ、会談のために呼び出されたとき、彼らはこの様子を注意深く観察し、さらにさまざまな階層の日本人たちの日常生活や、儀礼について書き留め、スケッチしていたのである」

ティレジウスのスケッチ−日本人の役人
ティレジウスのスケッチ−日本の船

 日本を描いたスケッチのなかで学問的に重要なのは、アイヌ人をスケッチしたものである。このスケッチによって、これ以前アイヌについて情報を提供してきたクラシニコフやラプルースの紹介が無価値なものになった。ティレジウスのスケッチは現在でもその学問的な意義をもっている。
 ティレジウスのスケッチにもとづき、アトラス本のための版画作成の依頼がなされたのは、1806年、完成したのは1813年である。完成までアレクサンドル一世の官房室が資金の面を援助した。118枚の版画をおさめたこの本は1813年ペテルブルグで刊行された。ただひとつだけ注意を促さなければならないのは、あくまでもこれはスケッチをもとに作成された版画であることであり、ティレジウスのオリジナルとは若干の違いがあることだ。
 現在この本は大きな図書館に所蔵されているが、あまりたくさんの部数はなく、またその本によって版画の配置や数などまちまちである。国立ロシア図書館にはこのうち最良といえるものが保管されている。
 この後のティレジウスであるが、ペテルブルグ科学アカデミーの自然史の助教授に就任したあと、1809年に客員アカデミーに任命され、1817年に祖国ドイツに戻り、1857年88歳で亡くなった。


 「ティレジウスの二冊のアルバム」で、アトラス本にティレジウスのスケッチがもとになった118点の版画が掲載されていることはわかったが、2冊のアルバムに何点のスケッチがあり、そのうち日本で描かれたものが何点あるかという点については触れられていない。
 200年前に描かれたこのアルバムのオリジナルが日本で展示されれば、大きな話題になることは間違いない。長崎での日本人の生活ぶりが、正確無比なティレジウスの筆によって再現されることになるし、また彼がつけていたコメントにどのような説明がされているかという点も興味ぶかい。
 レザーノフと交渉にあたった通詞たちのスケッチを見ることで、なにか発見もあるかもしれない。もしかしたらアルバムには、漂流民たちのスケッチもあるかもしれない。
 この論文の著者によってその民族学的な価値を高く評価されている、マルケサス諸島のスケッチと、例えば津太夫たちの話を聞きながら絵師が描いた『環海異聞』の挿絵とくらべて見ることも面白いのではないかと思う。
 アルバムとアトラス本の展示は、「レザーノフと日本」展に欠かせないことだけはたしかである。


記事一覧へ デラシネ通信 Top 前へ | 次へ