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2001.08.01

会報準備号0-1

「若宮丸漂流民友の会(石巻若宮丸漂流民の会 正式発足前の旧称)」の会報準備号0-1(2001.08.01発行)です。

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「レザーノフとの出会い」(「石巻かほく」の記事から)

大島幹雄

 ネヴァ河畔にある科学アカデミーサンクトペテルブルグ支部東洋学研究所で、レザーノフの辞書を初めて手にしたのは、いまから七年前の一九九四年六月、ペテルブルグが一年で一番美しく輝く季節白夜を迎えていた時だった。暗い部屋で、赤い表紙をあけ、丁寧に書かれた美しいロシア文字を目にした時の感動をいまでも忘れることができない。
 そしていまこの辞書が翻訳されたことで、この辞書を編纂したレザーノフ、そして協力した漂流民たちの思いが、多くの人々に伝わることになった。それを素直に喜びたい。
 レザーノフも若宮丸漂流民も、日露交渉史のなかで重要な役割を演じていたのにもかかわらず、どちらかといえば日陰者の扱いを受けている。レザーノフにいたっては、悪人のレッテルを貼られてさえいる。司馬遼太郎は『ロシアについて』のなかで、「レザノフは、いやな野望をもつ、いやな男だった、レザノフは、どの国にもいる、愛国を金儲けにする男だった」とさえ書いている。
 レザーノフの辞書を見つけてから、彼のことが気になり、彼が書き残したものを読むなかで、司馬がいうような人間ではない、なんとかその汚名をはらしたいと思うようになった。そして昨年彼が長崎に滞在中に書いた日記を翻訳し『日本滞在日記』(岩波文庫)を出すことになった。この本がきっかけで、レザーノフのことに関心がもたれるようになったのではないかと思っている。
 レザーノフは、日本だけでなく、ロシアでも長年、日陰者の扱いを受けていた。日露交渉失敗の張本人とされたのだ。しかしロシアでも彼の再評価がはじまろうとしている。レザーノフの最期の地シベリアのクラスノヤールスクでは、学者やマスコミ関係者が中心となり、レザーノフフォンドが設立され、レザーノフ博物館をつくる動きが進んでいる。いまここと連絡をとりながら、資料の交換をはじめている。クラスノヤールスクの新聞では「ナジェージダの帆の下で-ロシア使節の日本滞在日記が、日本でついに公刊」と、『日本滞在日記』の出版が大きく報じられた。
 レザーノフ来航当時に交渉の窓口になった長崎通詞たちが書いた日記『魯西亜滞船日記』の中で、通詞たちは、レザーノフが若宮丸漂流民四名を引き渡す時、レザーノフと漂流民が涙を流しながら別れを告げたあと、レザーノフが、引き取りに来た役人に対して、「彼の邦で十二年間よく勤め、年来御国の御仁徳を慕い帰朝を望んだので、国王がそれを許し、今回連れてきたのであり、このためにも四人を一日も早く生国に罷り越し、親族ともへ対面相叶うようにお願いしたい」と語ったと、書きとめている。これも人情にあついレザーノフの一面を伝えている。いままで悪人扱いされてきたレザーノフの真情を、これからも少しずつでもいいから伝えていきたいと思っている。
 また地元でもあまり知られていない若宮丸漂流民たちの足跡をもっと知ってもらうために、いま『若宮丸漂流民友の会(仮称)』を立ち上げようと企んでいる。先日東京で開催された市民学会『日本とロシア』で、レザーノフと若宮丸漂流民について、レポートする機会があったのだが、そこで初めてこの構想を公表した。いま発起人を募りながら、なんとか年内に発足させたいと思っている。なによりも彼らの出身地である石巻を拠点に、市民レベルでこうした会が生れることが望ましい。日露関係が新しい時代を迎えているいま、歴史の闇のなかに置き忘れられたレザーノフと若宮丸漂流民の接点を、もう一度見直し、再評価することは、意義のあることではないだろうか。

若宮丸年表

年表PDF年表PDF

露暦 日本暦 新暦 出 来 事
1792年 寛政四年
  9月 3日   アダム・ラクスマン指揮のエカテリーナ二世号根室来航。大黒屋光太夫ら神昌丸漂流民三名帰国  
1793年 寛政五年
  7月16日   長崎入港の信牌を得て、エカテリーナ二世号、箱館を出帆し、帰国  
  7月23日     松平定信、老中を辞職
  11月27日   若宮丸、江戸をめざして石巻出港  
1794年 寛政六年
  5月10日   若宮丸、アウレト列島・アンドレヤノフスキエ諸島の一小島へ漂着  
  6月13日   若宮丸漂流民、ロシア人の案内でナアツカ港到着  
1795年 寛政七年
  6月28日   若宮丸漂流民、オホーツク着  
1796年 寛政八年
  1月24日   若宮丸漂流民儀平、善六、辰蔵の三人、イルクーツク着  
11月 6日       エカテリーナ二世病没、パーベル一世即位
  11月中   若宮丸漂流民左太夫、銀三郎、茂治郎、左平、太十郎の五人イルクーツク着  
1797年
1月 12月下旬   若宮丸漂流民津太夫、清蔵、巳之助、吉郎治、市五郎、八三郎、民之助イルクーツク着  
1798年 寛政十年
1799年
1月 12月27日     幕府、東蝦夷地を直轄地とすることを決定。箱館に蝦夷地御用地掛設置
1799年 寛政十一年
7月 8日     露米会社設立、レザーノフ総支配人となる  
1801年 寛政十三年
  1月     幕府、大規模な蝦夷地調査隊の派遣を決定
3月12日       パーヴェル一世暗殺され、アレクサンドル一世即位
1802年 享和二年
7月29日     アレクサンドル一世、露米会社から提出されていた世界周航探検隊派遣計画を裁可  
8月 7日     世界周航船派遣を正式決定。派遣船は二隻。探検隊長にクルウゼンシュタイン他の一隻の艦長にリシャンスキーを任命  
1803年 享和三年
  4月26日頃   若宮丸漂流民ペテルブルグ到着  
  5月     ヘンドリック・ドゥーフ、長崎出島の新商館長に就任
7月     アレクサンドル一世、レザーノフを侍従長に昇進させ、世界周航探検隊長、兼 遣日修好使節・北方植民地全権に任命  
8月 7日     津太夫、儀平、太十郎、左平の四名の日本帰国希望者を乗せたナジェジダ号とネヴァ号の二隻、クロンシュタット出帆  
1804年 享和四年-文化元年
6月     ロシア船二隻、ハワイ諸島オアフ島へ寄帆。ナジェジダ号はペトロパブロフスクへ、ネヴァ号はカジヤク島をめざしてに二手に別れる。  
7月     ナジェジダ号、ペトロパブロフスク入港  
    8月 8日 オランダ商船マリア・スサンナ号とヘジナ・アントアネット号相次いで長崎に入港。オランダ商館長ドゥーフは、同船からの情報で近々ロシア船が長崎に来航することを知り、長崎奉行所にその旨を通知  
8月26日     ナジェジダ号、ペトロパブロフスク出港、通訳として乗船していた漂流民善六下船を命じられ、当地に残る  

露暦 日本暦 新暦 出 来 事
9月26日 9月 6日   ナジェジダ号長崎来航、伊王島沖に係留、見届検使として手附行方覚左衛門、矢部次郎太夫事情聴取のため来船(オランダ商館長ドゥーフ同行)。レザーノフ「来航趣意書」(オランダ語訳)と信牌写しを渡す  
9月27日 9月 7日   第一回検使として、長崎奉行所支配勘定村田林右衛門、家老平尾文十郎、矢部次郎太夫来船(オランダ商館長ドゥーフ同行)、レザーノフ国書を提示、来航目的を説明、信牌を渡す
ナジェジダ号神の島前木鉢浦に曳航
レザーノフ、鉄砲他の武器を引き渡す
 
9月28日 9月 8日   第二回検使として、後藤儀助、行方覚左衛門来船。国書の内容を確認。
ロシア船来航第一報を江戸に送る(勘定奉行柳生主膳、中川飛騨守宛て)、「来航趣意書」の和訳を同封、同様の内容の御用状を四人(戸田氏教、牧野精、土井利厚、青山忠裕の老中に送付
 
9月30日 9月10日   第三回検使来船。国書の内容の確認、国書に書かれている日本語・満州語も読むことができなかったため
新任の長崎奉行肥田頼常長崎到着、大田南畝長崎着任
 
  9月12日   肥田頼常、職務引き継ぎ  
10月 3日 9月13日   松田伊左衛門、行方覚左衛門来船(通詞の名村、本木、馬場が同行)。
信牌持参のため、入港を認められると思うが、確認のため江戸に手紙を書いて、しばらく待ってほしいこと、江戸から許可がでるまで、薪水、食料を提供するという報告
 
10月 4日 9月14日   ナジェジダ号神の島から神崎沖に繋替。小倉源之進(手附出役)と行方覚左衛門立会い
成瀬奉行、江戸(柳生、中川宛)に肥田との交替をいつしたらいいか問い合わせの手紙を送る
長崎奉行両名から、江戸にロシア国王からの国書の写し3通(露・満州・日語)と翻訳書を添えて、ロシア船取扱いについて伺い書を、老中と柳生・中川宛てに送られる
 
10月 6日 9月16日   ドゥーフからロシア船に砂糖届けられる  
10月 9日 9月19日   レザーノフ、ドゥーフに砂糖の礼状を送る  
10月10日 9月20日   オランダ船長崎港を出航  
10月11日 9月21日   9月14日、神崎沖に繋替したことを江戸に報告(老中と柳生・中川宛)。  
10月12日 9月22日   オランダ船号砲を放ったことに対して、レザーノフ抗議  
10月15日 9月25日   上陸場所として木鉢郷が与えられることを通知  
10月16日 9月26日   レザーノフ、オランダ船に委託される皇帝宛の手紙を渡す。(封印のため松崎と菊沢来訪)
ドゥーフ、お茶と煙草をレザーノフに送る
 
10月17日 9月27日   レザーノフ、木鉢につくられた腰掛所(休憩所)に案内される
木鉢に休憩所をつくったことを江戸に報告(柳生・中川宛)
 
10月19日 9月29日   オランダ船がいま係留している大田尾に、オランダ船が立ち去ったあと、ナジェジダ号を停泊してはどうかという提案がなされる。  
10月20日 10月 1日   肥前・筑前聞役に、ロシア船を大田尾に係留することを通知  
10月27日 10月 8日   オランダ船抜錨
ロシア船のバラストを荷揚げするために唐船 2隻が提供されるという報告を受ける。
 
10月28日 10月 9日   新たな係留地大田尾に案内される  
10月29日 10月10日   レザーノフ、火薬と銃を渡す
レザーノフ、修理に必要な木材のリスト提出
 
11月 3日 10月15日   荷揚げとレザーノフの借り住まいのための唐船 2隻が到着。
しかし荷物を置く場所もなく、住むことができないことが判明。レザーノフ、厳重に抗議
ロシア側から梅ケ崎上陸許可を求める願書が提出(翻訳)される。
 
11月 6日 10月18日   江戸にナジェジダ修理を海上でするのは困難なため、上陸するのもやむなしという報告書送る(柳生、中川宛)。  
11月11日 10月23日   江戸より(差出人 中川飛騨守)第一回目の返事(江戸発 文化元年10月13日)。大炊頭が書いた 2通の手紙も同封される。  
11月13日 10月25日   江戸へ手紙送付(柳生、中川宛、大炊頭への返事)-(文化元年11月 6日江戸着)  
12月 5日 11月17日   レザーノフ以下20名(漂流民 4名を含む)梅ケ崎に上陸  
12月 6日 11月18日   江戸にレザーノフたちが梅ケ崎に上陸したことを報告する手紙(柳生・中川宛)送付
レザーノフ、この日初めて大田南畝と会う
 
12月 8日 11月20日   ドゥーフ、野菜と煙草をレザーノフに届ける
大田尾周辺の警備を解除
 
12月 9日 11月21日   江戸より第一回下知状到着(文化元年11月 8日江戸発)。  
12月10日 11月22日   レザーノフからドゥーフに対して、ラム酒、ワインの贈物。
ナジェジダ号長崎入港、梅ケ先宿舎前に投錨
 
12月12日 11月24日   江戸より第二回下知状到着(文化元年11月12日江戸発)
病人が出た時は、出島、もしくは唐人屋敷で養生させること、漂流民との応対を禁止、もしもロシア人に死人が出ても日本に埋葬させないように指示。
長崎奉行名による第一回下知状に対する返事、江戸へ発送(柳生・中川宛)。
指示通りに処理したことを報告 (文化元年12月16日江戸着)
 
12月13日 11月25日   ナジェジダ号からの荷揚げ完了
長崎奉行の指示により、役人を集め、ロシア人ならびに漂流民と口を聞かないように厳重に申しつける
 
12月14日 11月26日   江戸への返事(ロシア船入港、第二回下知状の指示に従ったことを報告)発送 (文化元年12月18日江戸着)
ドゥーフからレザーノフに対して箪笥の贈物が届く
 
12月16日 11月28日   江戸から問い合わせの書状到着(ロシア人の食料事情について、オランダ人の対応の様子を詳しく報告するよう要請)  
12月17日 11月29日   レザーノフ、ドゥーフに対して箪笥への御礼と、夜服の手配をお願いする手紙を送る  
12月19日 12月 1日   出島で、新年のお祝い(オランダ正月)  
12月22日 12月 4日   漂流民儀平、病気のため日本人医師の診断を受ける  
12月25日 12月 7日   梅ケ島のロシア人宿舎でクリスマスのお祝い  
12月31日 12月13日   ドゥーフに依頼のあった夜服については、異国人同士での贈物のやりとりが禁止されていることもあり、日本側が代わりにレザーノフに贈答されること決定される  
1805年
1月 3日 12月16日   夜服届けられる
ラングスドルフ、熱気球の実験をする
 
1月 4日 12月17日   漂流民太十郎、自殺をはかる  
1月 5日 12月18日   レザーノフ、漂流民の受領を願い出る手紙を提出
レザーノフ、ナジェジダ号修理のための材料を依頼、さらに「バランダ」を日本の大工につくってもらいたいと正式依頼
 
1月 6日 12月19日   ラングスドルフ、再び熱気球の実験するものの、落下し、水浸しになる。  
1月 9日 12月22日   漂流民受取を想定して、揚屋修繕の指示が出される  
1月10日 12月23日   漂流民津太夫、左平、病気のため、日本人医師の治療を受ける
レザーノフ、木鉢にナジェジダ号修理のための円材をとりにいきたいと申し出る
 
1月14日 12月27日   長崎奉行名で、太十郎自殺未遂事件を報告する手紙を江戸に送付(文化2年 1月19日江戸着)  
1月15日 12月28日   レザーノフ、江戸からの沙汰がないことに対して抗議、二日後まで返事がない時は、ナジェジダ号に戻ることを言明  
1月17日 12月30日   梅ケ島のロシア人宿舎に新年の飾り付け、さらに新年の祝い品が届けられる。  
     文化2年
1月20日 1月 3日   通詞石橋助左衛門、新年の挨拶にレザーノフのもとを訪ねる  
1月22日 1月 5日   節分のお祝いと飾りつけ  
1月23日 1月 6日     幕府特使目付遠山金四郎ら江戸を出発
1月25日 1月 8日   ラングスドルフ, 気球実験、また落下し、ボヤ騒ぎ
ナジェジダ号乗組員タポリヤル、日本人医師の診断を受ける
 
1月26日 1月 9日   江戸からロシア人上陸やむなしの報告を確かに渡したという返事
(「十二月九日出宿継到着、魯西亜人乗船破損所為、修復 上陸の儀、言上書進達済申来」)
 
1月27日 1月10日   通詞為八郎と義十郎、レザーノフに特使が江戸を出発したと報告  
1月28日 1月11日   本木庄左衛門、江戸から特使が出発したことを、奉行からの伝言として、レザーノフに伝える  
2月 4日 1月18日   江戸から手紙
(「先月二十七日出宿継到着、魯西亜人上陸場所ノ儀ならびに船中取締食料等の儀、言上書進達済申来」)
 
2月 5日 1月19日   江戸からロシア側への九カ条からなる正式回答、および特使として目付遠山金四郎を派遣する下知状が長崎到着(文化二年一月六日江戸発)  
2月 6日 1月20日   レザーノフ、リューマチの発作  
2月 8日 1月22日   レザーノフ、日本側に治療を依頼  
2月 9日 1月23日   レザーノフ、治療依頼のための正式文書を提出
江戸から中川、柳生両名差し出しの宿継到着(文化二年一月十三日発)、ロシア人に薪水を与える件に関して子細事項を指示
 
2月10日 1月24日   日本人医師、レザーノフのため灸治療をしたほういいという上申書を奉行宛に提出
レザーノフ、ロシアの薬を服用、快方に向かう
 
2月12日 1月26日   通詞目付三島五郎助、レザーノフの元を訪れ、江戸から急使が届いたこと、特使が二十日後に到着すると報告、(正式な報告ではなく、あくまでも奉行の秘書から聞いた話として伝える)  
2月14日 1月28日   通詞馬場為八郎、西義十郎ナジェジダ号訪問、レザーノフに内緒で、艦の修理状況を調査  
2月16日 2月 1日   ランチ修理用の銅板七十枚到着  
2月21日 2月 6日   「バランダ」届く
江戸から宿継(文化二年一月十五日発)到着、薪水の他に、綿も与えるよう指示
 
2月28日 2月13日   レザーノフ、江戸へ行けないことを正式に知らされる  
3月 1日 2月14日   ナジェジダ号装備開始  
3月12日 2月25日   天満宮祭日
レザーノフ奉行所訪問に関して、肥前、筑前、大村の各聞役が呼ばれ、細かい警備に関する指示を受ける
 
3月14日 2月27日   前日に特使遠山が小倉に入り、二日後に長崎に到着するという報告を受ける  
3月15日 2月28日   為八郎、明後日遠山が長崎に到着すると報告  
3月17日 2月30日   目付遠山金四郎以下、徒目付二名、御小人目付四名長崎着  
3月19日 3月 2日   長崎奉行、江戸に遠山らの到着と、ロシア人に与える教諭書、申渡書を確かに受け取ったという報告を発送
遠山を交えて、日本側日露会談のための詳細な打合せを行う
 
3月20日 3月 3日   前日肥前、筑前の各聞役から提出されていた警備に関する問い合わせに対して、回答を送る
桃の節句(雛祭り)
 
3月21日 3月 4日   レザーノフ、明後日長崎奉行所で会談が行われると知らされる。  
      奉行所で、日露会談の段取りについて、通詞石橋、中山らを交え協議  
3月22日 3月 5日   レザーノフ、遠山長崎到着の報告を受ける。日露会談のやり方について通詞たちと協議
通詞たち、この協議のあと奉行所に戻り、奉行、遠山と対応を協議
 
3月23日 3月 6日   第一回日露会談  
3月24日 3月 7日   第二回日露会談、この日成瀬豊後守より「御教諭書」、肥田因旛守より「長崎奉行申渡」が申し伝えられる、さらに薪水料として米百俵、塩二千俵を与える通知。レザーノフ、これらの薪水料を受け取ることを拒否、再度ロシア側の献上品を受け取ることを要求、さらに特別保護証(捨切手)を要求  
3月25日 3月 8日   長崎奉行所で、レザーノフの要求に対して協議、この後決定事項をレザーノフに伝える  
3月26日 3月 9日   第三回日露会談
肥田因旛守、遠山立会いのもと、各藩聞役に対して、まもなくロシア船が出航するという報告
 
3月27日 3月10日   漂流民四名、日本側に引き渡される
今後ロシアに漂流した日本人については、オランダ本国か、バタヴィアに送還するようにという通知、レザーノフこれをオランダ語に訳した文書でもらいたいと依頼
レザーノフが持参した皇帝からの国書、返却される
レザーノフ、ドゥーフへの贈物を通詞へ渡す
遠山、奉行名で、日露会談の結果を江戸に報告した手紙を送付(戸田、牧野宛)
この中で、教諭書、申渡書を確かに伝え、ロシア皇帝からの国書を返却し、薪水料を送ること、用意が整い次第ロシア船が出帆する予定であること、信牌も取り上げたことを報告
 
3月28日 3月11日   鏡の輸送
ドゥーフより、為八郎を通じて、日本が通商を拒否したことへの遺憾の表明、贈りものに対するお礼、レザーノフ、これに対してすぐに返事を送る
 
3月29日 3月12日   本木庄左衛門、レザーノフに対してオランダ人を通じて再度人を派遣するよう最初の助言  
3月30日 3月13日   ドゥーフより、レザーノフに対して贈物と手紙届く
通詞たちより、レザーノフへの贈物届けられる
 
3月31日 3月14日   米と塩積み込まれる
通詞目付三島、名村多吉郎来訪、多吉郎、レザーノフに対して手紙を書くことを約束
 
4月 1日 3月15日   為八郎、幕府の内情を暴露
遠山と一緒に長崎に来た、原田、鈴木、猪岡レザーノフ訪問
 
4月 2日 3月16日   本木庄左衛門、通商拒否を決定した張本人が老中戸田氏教であることを暴露
遠山と一緒に長崎に来た、増田、末次レザーノフ訪問
 
4月 4日 3月18日   レザーノフ、オランダ語に訳された手紙を受け取る
ドゥーフからの手紙届けられる
通詞たちから、レザーノフの紋章が入った漆の煙草入れを贈呈される
食料品(豚、鶏、酒、お茶、酢など)の積み込み
通詞たちが集まって、あらためて今後の方針についてレザーノフに説明(名村多吉郎が中心になって説明)
 
4月 5日 3月19日   レザーノフ、ドゥーフからバタヴィア公使に宛てた手紙を受け取り、ドゥーフ宛の手紙を渡す
ナジェジダ号出航
 

露暦 日本暦 新暦 出 来 事
4月 6日 3月20日   ナジェジダ号が沖合に出たことを確認、報告
遠山、成瀬、肥田連名で、老中四名宛てにロシア船出航の報告書を送る
 
4月 7日 3月21日   肥田、遠山各番所の見回り
筑前、肥前、大村各藩に警備をとく指示が出される
 
4月 8日 3月22日   肥後藩に警備をとく指示出される
江戸に宿継
 
  3月25日   遠山金四郎、長崎出立  
  3月27日   成瀬、支配勘定、手付出役、御普請役長崎出立
江戸に宿継(25日に遠山以下御徒目付二名、御小人目付四名が長崎を出立、26日矢部、27日成瀬、村田、上川らも長崎を出立)
 
  4月16日 5月14日 ナジェジダ号、樺太のアニワ湾に入り、調査。  
    6月 5日 ナジェジダ号ペトロパブロフスクへ帰帆。  
6月14日   6月25日 レザーノフ、露米会社の所属船マリア・マクダリナ号に乗船し、ペトロパブロスクを出港、北方植民地の視察に向かう。  
  6月18日   老中青山、松平左衛門に御褒詞  
  6月22日   老中列座のもと、青山より遠山に金五枚、堀田正敦より増田、原田に銀七枚下賜  
  7月21日   老中戸田より、松田伊右衛門、伊藤斧五郎、村田林右衛門に銀二枚  
7月18日     マリア・マクダリナ号、アレウト列島のウナラシュカ島に寄港、この地からレザーノフ、通商を強要するために、日本攻撃の裁可を求めた上奏文をアレクサンドル一世に送る  
8月26日     マリア・マクダリナ号、露米会社の根拠地シトハに到着
船として、米国商船二隻(ユノナ号とアヴォス号)を購入
この年本木庄左衛門大通詞見習になる
  12月18日   若宮丸漂流民江戸到着、大槻玄沢と志村弘強が尋問にあたる  
1806年 文化三年
  2月下旬   取り調べを終えた若宮丸漂流民江戸を発ち、故郷に戻る。  
  4月     老中戸田氏教、老中職を辞任
6月       ルイ・ボナパルト(ナポレオンの兄)、オランダ王となる。オランダの独立喪失
  4月 1日   漂流民太十郎、故郷室浜で病没(3 6歳)  
  5月25日     松平信明老中に復職。幕府、蝦夷地対策の強化に取り組み始める
7月     レザーノフ、日本遠征のユノナ号とアヴォス号を指揮し、シトハを出港  
8月 7日   8月19日   ナジェジダ号、クロンシュタットに帰帆し、世界一周航海完了
8月 8日     レザーノフ、ユノナ号艦長フォヴォストフに、樺太・エトロフ襲撃を命ずる  
9月15日     レザーノフ、オホーツク港到着  
9月24日     レザーノフ、日本攻撃中止を暗示した新たな指令をフヴォスト送付後、ペテルブルグへの旅路につく  
  9月 3日   漂流民儀平、室浜で病没(4 5歳)  
10月 6日 9月10日   ユノナ号、久春古丹に上陸、番所、倉庫を焼き、掠奪をなし、番人四名を連行  
1807年 文化四年
3月 1日   3月13日 レザーノフ、旅先のクラスノヤルスクで病没(43歳)  
  4月   大槻玄沢、「環海異聞」を藩主伊達政千代に呈上  
  4月23日   ユノナ号とアヴォス号、エトロフ島内甫襲撃、番人らを連行  
  4月29日   ユノナ号とアヴォス号、沙那の幕府会所を襲撃・/td>  
  5月21日   ユノナ号とアヴォス号、樺太に再上陸後、日本廻船を襲撃、海賊行為を続ける  
  6月 4日   ユノナ号とアヴォス号、礼文島での掠奪を終えたのち、連行してきたエトロフ番人五郎次ら二名を除く八人の捕虜を釈放 幕府、若年寄堀田正敦、大目付中川忠英を蝦夷地に派遣
  6月11日   ユノナ号とアヴォス号、オホーツクに帰帆、同地長官はフヴォストフとダヴィを投獄  
  10月     幕府、箱館奉行所を松前に移し松前奉行と改称
  11月     松前奉行羽太正養罷免される
  12月     幕府、ロシア船打ち払い令を命じる
1808年 文化五年
        本木、江戸番通詞として江戸へ
  8月15日   長崎湾にイギリス船フェートン号侵入(フェートン号事件) 長崎奉行松平康英、フェートン号事件の責任をとり自害
1809年 文化六年
  2月26日     本木、魯西亜語ならびに諳厄利亜文字(英語)修業を仰せつかる
  5月     本木、大通詞となる。
        この年より1817年までオランダ船の長崎入港が中絶
1811年 文化八年
  6月   ロシア船ディアナ号艦長ゴロヴニン、クナシリで捕らわれる  
1812年 文化九年
  4月   ロシア船、日本人漂流民六名をクナシリ島に送還  
  8月   ディアナ号副艦長リコルド、高田屋嘉兵衛をクナシリ海上で捕らえる  
1813年 文化十年
  5月   リコルド、高田屋嘉兵衛を伴い、クナシリ島に来航、ゴロヴニン釈放の交渉開始  
  9月   ゴロヴニン釈放交渉が、箱館で行われ(この時のロシア側通訳は、若宮丸漂流民でロシアに帰化した善六がつとめた)正式にゴロヴニンの釈放が決定する