若宮丸漂流民の概略
江戸時代、宮城県石巻湊から船出した千石船「若宮丸」は福島県沖で遭難し、はるかアリューシャン列島まで流された。当時、日本との貿易を望んでいたロシア政府の意向で、彼ら乗組員はシベリアを横断してサンクトペテルブルグへ、そしてそこから帆船「ナジェージダ号」に乗せられて西回りで世界一周し、日本に帰ってきた。
初めて世界一周した日本人である彼ら若宮丸漂流民の見聞は、帰国ののち大槻玄沢らによって『環海異聞』という本にまとめられた。
このページでは、若宮丸漂流民の概略をご紹介します。
★若宮丸漂流民の概略と宮城県内の史跡を紹介したリーフレット(2020年8月発行)はこちら。
★小学生向け読本の再録「初めて世界一周した日本人 漂流船若宮丸物語」はこちら。
若宮丸漂流民の足跡地図
若宮丸乗組員
※途中死亡者/ロシア残留者/帰国者
※名前のあとのカッコ内は表記のバリエーション、年齢は出帆時のもの
名前 | 年齢 | 出身地 | 職種 | 備考 |
---|---|---|---|---|
平兵衛 | 31 | 石巻 | 船頭 | アリューシャン列島で死亡 |
左太夫 | 51 | 寒風沢(塩竈市) | 楫取 | ペテルブルグへの旅中病気落伍 →イルクーツクへ戻る |
儀兵衛(儀平) | 32 | 室浜(東松島市) | 賄 (事務長) |
帰国 |
吉郎次(吉郎治) | 67 | 小竹浜(石巻市) | 船親父 (水主頭) |
イルクーツクで死亡 |
津太夫 | 49 | 寒風沢(塩竈市) | 水主 | 帰国 |
左平 | 31 | 寒風沢(塩竈市) | 水主 | 帰国 |
銀三郎 | 29 | 寒風沢(塩竈市) | 水主 | ペテルブルグへの旅中病気落伍 →イルクーツクへ戻ったか |
民之助 | 30 | 寒風沢(塩竈市) | 水主 | イルクーツクで受洗 |
辰蔵(辰兵衛/宅蔵) | 22 | 石浜(塩竈市) | 水主 | イルクーツクで受洗 |
太十郎(太十/ 太平/多十郎) |
23 | 室浜(東松島市) | 水主 | 帰国 |
茂次郎(茂次平/ 茂治郎/茂三郎) |
29 | 小竹浜(石巻市) | 水主 | ペテルブルグで受洗 |
市五郎 | 29 | 石巻 | 水主 | イルクーツクまでのシベリア横断中に死亡 |
清蔵 | 不詳 | 石巻 | 水主 | ペテルブルグへの旅中病気落伍 →イルクーツクへ戻る |
八三郎(初三郎) | 25 | 石巻 | 水主 | イルクーツクで受洗 |
善六 | 24 | 石巻 | 水主 | イルクーツクで最初に受洗/世界一周航海時、通訳としてカムチャツカまで同行 |
巳之助 | 21 | 石巻 | 炊 | ペテルブルグで受洗 |
若宮丸漂流民概略
※日付は、漢数字が和暦、アラビア数字が露歴、カッコ内が西暦
漂流 ~ アリューシャン列島への漂着

若宮丸の模型
寛政五年十一月二十七日(1793年12月29日)、石巻湊(宮城県石巻市)から米1330俵と木材400本を積んだ千石船「若宮丸」が江戸に向けて出帆した。船頭平兵衛はじめ16名を乗せた若宮丸は、塩屋崎沖(福島県いわき市塩屋崎)で北西の強風に遭い、太平洋を北東に流された。
舵を失い、帆柱を伐り倒し、さらには積んでいた米や木材を海に捨て、あてもなく冬の大海原をさまよう日々。食糧はあったものの、水がなくなるなか渇きに耐え、約5ヵ月間漂流したのち、寛政六年五月十日(1794年6月7日)アリューシャン列島の小さな島(どの島かはよく分かっていない)に漂着する。まさに艱難辛苦を乗りこえての漂着であった。
奇跡的に16名の乗組員全員が島までたどり着いたが、到着後、船頭平兵衛が亡くなった。
そのあと一行はナアツカ島に運ばれ、ここで原住民たちや、ここを基地としてラッコ猟をしていたロシア人の助けを受けながら、一年あまりを過ごす。極北の島で、言葉も生活習慣もまったく違う原住民たちと同じものを食べ、寒さをしのいで生き延びたのである。
オホーツクへ
ナアツカ島で毛皮をとるためのラッコ猟を管理していたのは、露米会社であった。ナアツカの支配人デラロフは、漂流民たちをロシア本土へ連れて行くために、船を出すことを決断する。通常、集められた毛皮が船倉いっぱいになるまで本土への船は出航しないのだが、この時はまだ半分ぐらいしか集まっていなかった。日本との貿易を熱望していたロシア政府の意向を受けての決断だった。
露暦1795年5月10日(1795年5月21日)ナアツカ島を出発、途中船が方向を間違えて北極海に向かい、漂流民たちはそこで氷山を目撃している。同年8月1日(8月12日)オホーツクに着いた。
シベリア横断 ~ イルクーツクへ
オホーツクで漂流民一行15名は三つのグループに分けられ、今度はシベリアの中心都市イルクーツクへと順次連れて行かれる。第一班の儀兵衛、善六、辰蔵の3名は、同年9月19日(9月30日)出発、ヤクーツクを経て、極寒のシベリアを馬に乗せられて横断し、翌年2月21日(1796年3月4日)イルクーツクに到着。最後の第三班がイルクーツクに到着するのは、1797年1月のことであった。このシベリア横断の旅の途中ヤクーツクで市五郎が亡くなった。
イルクーツクでの生活
最初にイルクーツクに着いた第一班の3名のうち、善六と辰蔵がまもなくロシア正教に改宗、ロシアに帰化した。さらにあとから来た第三班の八三郎と民之助も帰化している。
イルクーツクには新蔵と庄蔵という2名の日本人がいた。彼らは大黒屋光太夫と一緒にイルクーツクにやって来た伊勢の船乗りであった(大黒屋光太夫らの神昌丸は天明二年(1782年)駿河沖で遭難、アリューシャン列島に漂着後、寛政元年(1789年)イルクーツク着)。彼らふたりもロシアに帰化していたが、いずれも病気のため日本に戻れないことがその大きな理由であった。
第一班がイルクーツクに到着して間もなく、第二班が着く前の露暦1796年11月6日(1796年11月17日)に時のロシア皇帝エカテリーナ二世が亡くなった。大黒屋光太夫とも謁見し、日本との貿易を推進していたエカテリーナの死去は、漂流民たちを帰国させる動きに歯止めをかけることになった。
イルクーツクで帰化組4名と帰国希望組10名は分かれて生活することになったが、みな異国での生活に自ら溶け込み、しぶとく生き延びていった。
しかし露暦1799年3月22日(1799年4月2日)、最長老の吉郎次が72歳で亡くなった。漂流民たちは全員そろって彼に永遠の別れを告げた。このとき吉郎次は「われ死したることも語りくれよかし」という遺言を残している。
吉郎次が亡くなったあと、太十郎が文字を彫り、皆で墓をつくった。
★この墓は、吉郎次の死後およそ100年後の明治34年(1900年)に、ドイツで司法制度を学びシベリア経由で帰国した大審院検事小宮三保松によって発見された。小宮は帰国後、明治34年2月19日付の報知新聞に「バイカル湖畔にて日本人の石碑の蒼然として苔蒸したるを発見」という記事を書いた。
首都サンクトペテルブルグへ
1801年、のちにナポレオンを打ち破るアレクサンドル一世が王座につくと、祖母であるエカテリーナ二世が夢見た東方進出に本格的に乗り出すため、旗艦「ナジェージダ号」(ナジェージダはロシア語で「希望」の意)と「ネヴァ号」(ネヴァはサンクトペテルブルグを流れる川の名)の2隻からなる世界一周艦隊を派遣することを決定した。中断されていた日本との通商も大きな国策として再び取り上げられ、世界一周の最後には日本に立ち寄って若宮丸漂流民の送還を手土産に、日本との通商交渉を有利に持ち込む目論見であった。
この世界一周就航のアイデアを最初に提出したクルーゼンシュテルンは、ナジェージダ号の艦長に就任したが、この航海の責任者は露米会社の支配人でもあった皇帝侍従長レザーノフであった。
第一班がイルクーツクに到着してから7年後の1803年、漂流民たちのもとに首都サンクトペテルブルグに来るようにという知らせが届く。
1803年4月16日(1803年4月28日)漂流民たち13名はイルクーツクを出立、途中病気のため左太夫、銀三郎、清蔵の3名が落伍したが、この年の6月、10名がサンクトペテルブルグに到着した。
世界一周の旅へ
アレクサンドル一世に謁見し、最終的な帰国の意思を確認された漂流民たちのうち、津太夫、儀兵衛、太十郎、左平の4名が帰国を希望し、認められる。先に帰化していた善六、辰蔵、八三郎、民之助に加え、茂次郎と巳之助もペテルブルグで帰化して6名がロシアに残ることになったが、この帰化組のひとり善六は、通訳として世界一周の旅に同行することになった。
5名の漂流民たちを乗せたナジェージダ号とネヴァ号は、1803年7月23日(8月4日)サンクトペテルブルグのクロンシュタット港から出航した。
こうして世界一周艦隊は、コペンハーゲン(デンマーク)、ファルマス(イギリス)、テネリフェ島(スペイン領カナリア諸島)、サンタカタリーナ島(ブラジル)、南太平洋のマルケサス諸島を経て太平洋を渡っていった。
イギリスに行く途中で当時イギリスと交戦中だったフランス艦隊から誤って砲撃を受けたり、南アメリカ大陸最南端ホーン岬を回るときに猛烈な強風にあって南極近くまで流されたり、マルケサスの島では全身に入れ墨をした住民を見て鬼だと思ったりと、漂流民たち5名は各地で数奇な体験をした。
彼らは期せずして、鎖国前の日本で、最初に世界一周した日本人となったのである。
★ブラジルでは、日本文化を広める活動をしているニッポ・カタリネンセ協会を中心に若宮丸漂流民研究会が設立され、「日本移民の100年前に当地を訪れた日本人」として若宮丸漂流民を顕彰する活動が行われている。
『露日辞典』の編纂と世界一周の記録
この航海の途中、レザーノフは江戸幕府との交渉に備えて善六から日本語を学び、『ロシア語アルファベットによる露日辞典』をつくった。ロシア語の単語と対応する日本語(ロシア語アルファベットで表記)が並べられているこの辞典は、善六が語ったと思われる日本語訳が当時の石巻方言をよく伝えている。
★この『露日辞典』は、長らく行方が分からなくなっていたが、1994年に石巻若宮丸漂流民の会事務局長の大島幹雄氏によって発見された。
レザーノフやクルーゼンシュテルンをはじめ、何人かの乗組員はこの航海を詳しく記録している。
自然科学者としてこの航海に参加していたティレジウスは、航海の先々で異国の風物を詳細なスケッチとして残しており、漂流民たちが見たであろう景色を現在に伝える貴重な資料となっている。
また同じく博物学者のラングスドルフは、多くのスケッチのほかに動植物の標本も残している。
善六の退場
太平洋を渡ったナジェージダ号は、日本へ向かう前の最後の寄港地カムチャツカ半島のペトロパブロフスクに到着する。ここでレザーノフは露日辞典編纂などで大きな信頼を寄せていた善六を下船させる。すでにロシアに帰化し、ロシア正教徒となった善六の存在が、キリスト教を禁じる日本で問題になるのではないかという判断であった。
善六はレザーノフが戻るまで、ペトロパブロフスクで待つことになる。
長崎での足止め
クロンシュタットを出航してからおよそ1年後の文化元年九月六日(1804年10月9日)ナジェージダ号は長崎港外伊王崎に到着した。
レザーノフはすぐに江戸に向かって将軍と交渉する腹積もりだったが、幕府側の対応は緩慢であった。
実際の交渉の窓口となった長崎奉行所は、江戸に何度もお伺いをたてるが、幕府側の返事は曖昧なものばかりだった。最終的にロシア側の通商の申し出を拒否する方針を確認して幕府の役人が長崎で交渉の場につくのは、レザーノフ来航のおよそ半年後、文化二年三月六日(1805年4月5日)のことであった。ロシア皇帝からの国書を持った使節をいたずらに待たせる結果となったこの幕府の対応は、レザーノフを大いに怒らせ、2年後の文化魯寇事件(「文化露寇」とも表記する)のきっかけとなる。
長崎に着けばすぐにでも故郷に帰れると思っていた漂流民4名は、この交渉遅滞によって大きな精神的ダメージを受けた。
文化元年十二月十七日(1805年1月17日)、太十郎が自ら剃刀を喉に突き刺すという事件が起きる。幸いにも命はとりとめたが、このあと太十郎は一言もしゃべることはなかったという。
★この長期にわたる長崎滞在中、同行していた博物学者のラングスドルフは、外出が禁じられるなか食料として届けられた魚を標本にした。この日本産魚類の乾燥標本が今もドイツのベルリン自然博物館に保存されている。→新聞記事
文化二年三月十日(1805年4月9日)、漂流民4名はやっとのことで日本側に引き渡され、約11年4ヵ月ぶりに祖国の地を踏むことができた。
レザーノフは通商交渉では何の成果を上げることも出来ず、それどころか二度と日本に来ることのないようにという屈辱的な回答を持って、三月十九日長崎をあとにした。
だが4名の漂流民たちはこのあと7ヵ月あまりも長崎に留め置かれた。仙台藩から出迎えの役人が長崎に到着するのは、文化二年十月二十八日のことである。
『環海異聞』

『環海異聞』の写本から ロシア皇帝アレクサンドル一世夫妻の肖像画
十二月十八日(1806年2月6日)、江戸の仙台藩上屋敷に到着して伊達周宗の謁見を受けたあと、4名はここにも2ヵ月近く滞在することになる。
この仙台藩上屋敷で漂流民たちは蘭学者大槻玄沢と志村弘強による聞き取り調査を受ける。これがのちに『環海異聞』としてまとめられ、文化四年四月(1807年5月)大槻玄沢から藩主伊達政千代に呈上された。『環海異聞』は、漂流民たちの遭難から世界一周、帰国までの見聞を、多くの絵図を交えて記したもので、開国前夜の日本では貴重な外国の情報源となった。
帰郷とその後
漂流民たち4名は文化三年二月下旬に江戸を発ち、故郷へ戻った。遭難から12年、ようやくの帰郷であった。
4名のうち、太十郎と儀兵衛は、この年のうちにそれぞれ故郷の室浜と
ロシア各地に残った漂流民たちのその後は、よく分かっていない。
現代に残る漂流民の遺物

若宮丸遭難供養碑
若宮丸遭難供養碑
石巻の禅昌寺には、若宮丸乗組員のための供養碑があった。これは若宮丸が遭難したあと、七回忌法要の際に船主米澤屋平之丞が施主となって建立したものであった。いつしかこの石碑は打ち捨てられたものらしく、境内にある石橋の土台として使われていたが、平成元年、参道敷石工事の際に発見され、漂流民たちを偲んで再び境内に建立された。

太十郎がロシア皇帝から下賜された上着
太十郎のジャケット
鳴瀬町(現・東松島市)には、太十郎がロシア皇帝から下賜されて持ち帰ったというジャケットが子孫に伝えられ、現在は旧鳴瀬町有形文化財として東松島市の奥松島縄文村歴史資料館に保存されている。