初めて世界一周した日本人 ―漂流船若宮丸物語―
2004年7月28日~8月27日宮城県の慶長使節船ミュージアムサン・ファン館で開催された企画展「初めて世界一周した日本人」にて配布された小学生向け小冊子「初めて世界一周した日本人-漂流船若宮丸物語-」の再録です。(文:齋藤博)
★小冊子は子ども向けに書かれていたため、漢字の使用を制限していましたが、
読みやすくするために適宜漢字に改めてふりがなをふってあります。
★より詳しい若宮丸漂流民の概略はこちら。
若宮丸漂流民のあしあと
●若宮丸漂流民のあしあと
1 はじめに
江戸時代に世界一周できるの?
今年は2004年ですね。今から約200年前の日本は、江戸時代でした。当時、江戸幕府は外国との貿易や交流、行き来をきびしく制限する
しかし、実際に200年ほど前に、北はベーリング海、南は南極近くまで旅をした日本人(船乗りたち)がいたのです。宮城県石巻の千石船“
これから、みなさんで、日本ではじめて世界一周をした若宮丸漂流民の足跡を追いかけてみましょう。
※鎖国体制――三代将軍徳川家光が、外国との貿易や行き来を禁止しました。貿易は長崎にかぎり、オランダと中国だけに許しました。1639年から1853年まで214年間も続きました。(本文に戻る)
2 若宮丸流される
若宮丸、いわき市沖で遭難
。運命はいかに?

●若宮丸の模型
1793(寛政5)11月27日、若宮丸は石巻港を出港して江戸に向かいました。当時、石巻は
石巻港を出て約一週間、
当時、江戸や大坂など大きな都市は人口が増え、物の交流も盛んで、それらのほとんどは船で運ばれました。船は、たくさんの荷物を運ぶことができるからです。しかし、船がたくさん行き来することにともなって事故も増え、海外に漂流する船も少なくありませんでした。当時の船は風の力で動いていたため、帆柱を捨ててしまうとそれからの行き先は、ただ海流の流れにまかせるしかありませんでした。南に流されるか北に流されるかで、船乗りたちの運命は大きく変わってきます。
黒潮に乗り、ベトナム・フィリピン・中国・朝鮮半島などアジア各地に漂流した場合は、日本からさほど遠くもなく、また当時交流のあった中国を通して日本に戻ってくることができました。
しかし、北に流された場合は、長い期間漂流することになり、やがて食料もつきはて
北へ北へと流された若宮丸の運命は?
若宮丸は、北へ北へと流されました。乗組員にとって幸いだったのは、たくさんの米を積んでいたために、長い間の漂流に耐えることができたことでした。きっと、毎日船に残された米を少しずつ少しずつ食べつないで暮らしていたのでしょう。
太平洋のまっただ中で、船の行き先もわからないまま毎日米を食べつないでいる生活は、どのようなものだったでしょうか。乗組員は、毎日どんな思いで何を考えながら生活していたのでしょうか。みなさん、想像できますか。約半年間もですよ。
若宮丸は、1797年(寛政6)5月10日、アリューシャン列島アンドレヤノフ諸島の小島にたどり着きます。島に着いたのち、すぐ船頭の
ここから漂流民たちは、イルクーツクへ送り届けられ、ここでおよそ7年間暮らすことになるのです。
はじめのうちは見るものすべてがめずらしく、日本との生活のちがいに大変驚いたことでしょう。7年間も住み続けると、自分のふるさとを思う心も自然と小さくなってしまうこともしかたのないことかも知れません。この7年間の間に2人が
3 漂流民の運命が大きく動く
ロシア皇帝に会った漂流民の運命は?
13人の漂流民の運命が大きく動くのは、アレクサンドル一世がロシア
1803年(享和3)3月、イルクーツクでの生活は8年目に入りました。漂流民13人は、皇帝と会うために首都ペテルブルグに呼び出されます。その旅の
5月、10人の漂流民たちはペテルブルグ一世と会い、このままロシアに残るか、それとも日本に帰りたいか希望を聞かれました。
みなさんがこの立場にいたら、どちらを選びますか。それは、なぜですか。友達と話し合ってみましょう。
漂流民たちは、考えに考え抜きました。その結果、
そして、その当時ロシアが準備していたロシア初の世界一周
ナジェージダ号には、日本への帰国を望んだ4人のほかに、ロシア人になった
漂流民たち1年2か月の大航海
1804年8月、ロシアの首都ペテルブルグ近くのクロンシュタット港を出発した船は、途中、コペンハーゲン(デンマーク)、ファルマス(イギリス)、サンタ・カタリナ島(ブラジル沖)、ヌクヴィア島(南太平洋・マルケサス諸島)などの港に寄り、約1年かけてカムチャツカ半島のペトロパブロフスク港に到着したのです。
北海の海上では、その当時イギリスとフランスが戦争していて、フランスの船と間違えられてイギリスの船から攻撃を受けたり、南アメリカの一番南、ホーン岬をまわる時は
また、マルケサス諸島では、全身
みなさん、地図を広げながら、10人の漂流民を乗せたナジェージダ号の足跡をたどってみましょう。
ペテルブルグとペトロパブロフスクの位置関係を見てみると、ロシアの西と東にあたります。この間、約1年。漂流民たちは、どんな気持ちで航海していたのでしょうか。
ペトロパブロフスクで、通訳の善六は船を下りました。ロシア人となった善六を日本に連れ帰るのは、これから行われるロシアと日本との貿易に関する交渉に良い影響を与えないというロシア使節レザーノフの考えでした。日本を目の前にした善六は、どのような気持ちだったでしょうか。
4 帰国後は招かれざる客
日本で待ち受けていた漂流民の運命は?
1804年(文化元)9月6日、漂流民を乗せたナジェージダ号は、長崎港に到着します。ロシアの首都ペテルブルグを出発してから1年2か月あまり。石巻を出港してから11年かかってやっと日本に帰ってきたことになるのです。
4人の漂流民たちの気持ちは、どのようなものだったでしょう。「ああ、これが夢にまで見た日本か」「やっとやっと帰ってきたぞ」「地元の人たちは、自分たちのことを覚えていてくれるだろうか」「一日も早く石巻に帰りたい」「ロシアに残した仲間のためにも、これからしっかり生きなくては」「しばらくは、ゆっくり休みたい」・・・・・。
ところが、なつかしい日本を目の前にしながら、なかなか上陸できません。日本は当時鎖国を行っていたため、長崎の役人はロシアの申し入れをすべて
かくして、漂流民たちは、幕府にとって“招かれざる客”となってしまったのです。これからの日本での生活を悲観し絶望した多十郎が、自殺を図るという事件もおきたほどでした。
1805年3月、ロシア艦隊は4人の漂流民を長崎の役人に渡しただけでむなしく長崎港をあとにしました。
待っていた厳 しい取り調べ

●『環海異聞』の写本
ようやく日本に上陸できたと思ったのもつかの間、次には長崎の役人の
「外国で見たり聞いたりしたことを絶対だれにも話してはならぬ」
と
さらに、ここでも厳しい取り調べを受けました。江戸の仙台藩
江戸での取り調べが終わり、4人の漂流民がふるさとに向かって江戸を出発したのは1805年2月のことでした。長崎で自殺を図った多十郎は、ふるさとにもどってまもなく4月1日になくなってしまいました。
5 今年(2004年)は漂流民帰国200年
石巻若宮丸漂流民の会 結成
以上、日本で初めて世界一周をした若宮丸漂流民の足跡をかけ足で見てきました。この経験はこれまで地元でもあまり知られることがなかったのですが、2001年12月に若宮丸の地元石巻市で“石巻若宮丸漂流民の会”が結成され、関心が高まってきました。
そして、今年2004年こそ、4人の若宮丸漂流民が長崎に戻ってから200年という記念すべき年にあたっているのです。
わたしたちの地元宮城県に、このような歴史がうもれていたことをみなさんは知っていましたか。若宮丸のことについては、まだまだ分からないことがたくさんあります。帰国した4人のその後の生き方、ロシアに残った人たちの生き方や墓などなど。若宮丸の研究は、今、始まったばかりなのかも知れません。

●儀兵衛・多十郎のロシア漂流碑(鳴瀬町室浜)

●多十郎がロシア皇帝からいただいた上着

●若宮丸遭難供養碑

●観音寺境内の墓碑