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2004.11.03 / 更新2014.02.04

初めて世界一周した日本人 ―漂流船若宮丸物語―

小冊子「初めて世界一周した日本人―漂流船若宮丸物語―」表紙

小冊子表紙

 2004年7月28日~8月27日宮城県の慶長使節船ミュージアムサン・ファン館で開催された企画展「初めて世界一周した日本人」にて配布された小学生向け小冊子「初めて世界一周した日本人-漂流船若宮丸物語-」の再録です。(文:齋藤博)

★小冊子は子ども向けに書かれていたため、漢字の使用を制限していましたが、
読みやすくするために適宜漢字に改めてふりがなをふってあります。

★より詳しい若宮丸漂流民の概略はこちら

若宮丸漂流民のあしあと

若宮丸漂流民のあしあと

●若宮丸漂流民のあしあと

1 はじめに

江戸時代に世界一周できるの?

 今年は2004年ですね。今から約200年前の日本は、江戸時代でした。当時、江戸幕府は外国との貿易や交流、行き来をきびしく制限する 鎖国(さこく)を行っていました。ですから、現代のように外国に行きたくてもなかなか行くことはできません。そういう時代に、世界一周をした日本人がいたことをみなさんは信じられるでしょうか。

 しかし、実際に200年ほど前に、北はベーリング海、南は南極近くまで旅をした日本人(船乗りたち)がいたのです。宮城県石巻の千石船“ 若宮丸(わかみやまる)”の乗組員、津太夫(つだゆう)儀兵衛(ぎへえ)多十郎(たじゅうろう)左平(さへい) の4人です。

 これから、みなさんで、日本ではじめて世界一周をした若宮丸漂流民の足跡を追いかけてみましょう。

※鎖国体制――三代将軍徳川家光が、外国との貿易や行き来を禁止しました。貿易は長崎にかぎり、オランダと中国だけに許しました。1639年から1853年まで214年間も続きました。(本文に戻る)

2 若宮丸流される

若宮丸、いわき市沖で遭難(そうなん) 。運命はいかに?

若宮丸の模型

●若宮丸の模型

 1793(寛政5)11月27日、若宮丸は石巻港を出港して江戸に向かいました。当時、石巻は 北上川(きたかみがわ)を利用した水運が開け、仙台藩の米倉(こめぐら) がたくさん立ち並び、江戸への米の積み出し港として栄えました。千石船は、石巻に当時、1,000隻以上が集まっていました。若宮丸は、仙台藩の米約1,300俵と材木を積んでいました。乗組員は16人です。

 石巻港を出て約一週間、塩屋崎(しおやざき)沖(いわき市)で暴風雨にあい遭難(そうなん) 。12月3日には“船の命”とも言っていい帆柱を切り捨て、太平洋を漂流することになってしまったのです。

 当時、江戸や大坂など大きな都市は人口が増え、物の交流も盛んで、それらのほとんどは船で運ばれました。船は、たくさんの荷物を運ぶことができるからです。しかし、船がたくさん行き来することにともなって事故も増え、海外に漂流する船も少なくありませんでした。当時の船は風の力で動いていたため、帆柱を捨ててしまうとそれからの行き先は、ただ海流の流れにまかせるしかありませんでした。南に流されるか北に流されるかで、船乗りたちの運命は大きく変わってきます。

 黒潮に乗り、ベトナム・フィリピン・中国・朝鮮半島などアジア各地に漂流した場合は、日本からさほど遠くもなく、また当時交流のあった中国を通して日本に戻ってくることができました。

 しかし、北に流された場合は、長い期間漂流することになり、やがて食料もつきはて遭難(そうなん)し沈没という悲惨(ひさん)な運命をたどる場合も、少なくありませんでした。

北へ北へと流された若宮丸の運命は?

 若宮丸は、北へ北へと流されました。乗組員にとって幸いだったのは、たくさんの米を積んでいたために、長い間の漂流に耐えることができたことでした。きっと、毎日船に残された米を少しずつ少しずつ食べつないで暮らしていたのでしょう。

 太平洋のまっただ中で、船の行き先もわからないまま毎日米を食べつないでいる生活は、どのようなものだったでしょうか。乗組員は、毎日どんな思いで何を考えながら生活していたのでしょうか。みなさん、想像できますか。約半年間もですよ。

 若宮丸は、1797年(寛政6)5月10日、アリューシャン列島アンドレヤノフ諸島の小島にたどり着きます。島に着いたのち、すぐ船頭の 平兵衛(へいべえ) が病死してしまいますが、残りの15人は地元の住民の報告を受けたロシア人によってオホーツクに連れていかれることになるのです。


 ここから漂流民たちは、イルクーツクへ送り届けられ、ここでおよそ7年間暮らすことになるのです。

 はじめのうちは見るものすべてがめずらしく、日本との生活のちがいに大変驚いたことでしょう。7年間も住み続けると、自分のふるさとを思う心も自然と小さくなってしまうこともしかたのないことかも知れません。この7年間の間に2人が () くなり漂流民は13人になってしまいました。そのうち、4人が一生ロシアに住み生きることを (ちか)い、ロシア人となったのです。

3 漂流民の運命が大きく動く

ロシア皇帝に会った漂流民の運命は?

 13人の漂流民の運命が大きく動くのは、アレクサンドル一世がロシア 皇帝(こうてい)に即位してからです。そのときから、ロシアは日本との貿易や交流を本格的に進めることを決めたのでした。

 1803年(享和3)3月、イルクーツクでの生活は8年目に入りました。漂流民13人は、皇帝と会うために首都ペテルブルグに呼び出されます。その旅の 途中(とちゅう) 3人が病気のため一行からはなれ、漂流民仲間は10人となりました。

 5月、10人の漂流民たちはペテルブルグ一世と会い、このままロシアに残るか、それとも日本に帰りたいか希望を聞かれました。

 みなさんがこの立場にいたら、どちらを選びますか。それは、なぜですか。友達と話し合ってみましょう。


 漂流民たちは、考えに考え抜きました。その結果、津太夫(つだゆう)儀兵衛(ぎへえ)多十郎(たじゅうろう)左平(さへい) の4人は日本へ帰ることを希望し、ほかの6人はロシアに残ることを希望したのです。

 そして、その当時ロシアが準備していたロシア初の世界一周周航船(しゅうこうせん)ナジェージダ号で、長崎に送り返されることになったのです。

 ナジェージダ号には、日本への帰国を望んだ4人のほかに、ロシア人になった 善六(ぜんろく)が通訳として乗り組んでいました。善六とロシア使節レザーノフは航海中に、日本との交渉のために『日露辞典(にちろじてん)』を編集しています。

漂流民たち1年2か月の大航海

 1804年8月、ロシアの首都ペテルブルグ近くのクロンシュタット港を出発した船は、途中、コペンハーゲン(デンマーク)、ファルマス(イギリス)、サンタ・カタリナ島(ブラジル沖)、ヌクヴィア島(南太平洋・マルケサス諸島)などの港に寄り、約1年かけてカムチャツカ半島のペトロパブロフスク港に到着したのです。

 北海の海上では、その当時イギリスとフランスが戦争していて、フランスの船と間違えられてイギリスの船から攻撃を受けたり、南アメリカの一番南、ホーン岬をまわる時は猛烈(もうれつ)な強風にあい、南極近くまで流されたりしました。

 また、マルケサス諸島では、全身()(ずみ)をした土着(どちゃく)の人たちと遭遇(そうぐう)したりと、めったにできない体験をしながらの航海でした。


 みなさん、地図を広げながら、10人の漂流民を乗せたナジェージダ号の足跡をたどってみましょう。

 ペテルブルグとペトロパブロフスクの位置関係を見てみると、ロシアの西と東にあたります。この間、約1年。漂流民たちは、どんな気持ちで航海していたのでしょうか。

 ペトロパブロフスクで、通訳の善六は船を下りました。ロシア人となった善六を日本に連れ帰るのは、これから行われるロシアと日本との貿易に関する交渉に良い影響を与えないというロシア使節レザーノフの考えでした。日本を目の前にした善六は、どのような気持ちだったでしょうか。

4 帰国後は招かれざる客

日本で待ち受けていた漂流民の運命は?

 1804年(文化元)9月6日、漂流民を乗せたナジェージダ号は、長崎港に到着します。ロシアの首都ペテルブルグを出発してから1年2か月あまり。石巻を出港してから11年かかってやっと日本に帰ってきたことになるのです。

 4人の漂流民たちの気持ちは、どのようなものだったでしょう。「ああ、これが夢にまで見た日本か」「やっとやっと帰ってきたぞ」「地元の人たちは、自分たちのことを覚えていてくれるだろうか」「一日も早く石巻に帰りたい」「ロシアに残した仲間のためにも、これからしっかり生きなくては」「しばらくは、ゆっくり休みたい」・・・・・。

 ところが、なつかしい日本を目の前にしながら、なかなか上陸できません。日本は当時鎖国を行っていたため、長崎の役人はロシアの申し入れをすべて(ことわ)ってしまったのです。貿易のみならずロシアの船が日本に来ることも禁止するという、ロシア側にとっては何も得ることがない結果になったのです。

 かくして、漂流民たちは、幕府にとって“招かれざる客”となってしまったのです。これからの日本での生活を悲観し絶望した多十郎が、自殺を図るという事件もおきたほどでした。

 1805年3月、ロシア艦隊は4人の漂流民を長崎の役人に渡しただけでむなしく長崎港をあとにしました。

待っていた(きび)しい取り調べ

『環海異聞』の写本

●『環海異聞』の写本

 ようやく日本に上陸できたと思ったのもつかの間、次には長崎の役人の (きび)しい取り調べが待っていたのです。

「外国で見たり聞いたりしたことを絶対だれにも話してはならぬ」
(ねん)をおされて、漂流民たちが仙台の役人に引き渡されたのは、その年の秋も深まったころでした。

 さらに、ここでも厳しい取り調べを受けました。江戸の仙台藩屋敷(やしき)で、仙台藩主の命令で大槻(おおつき)玄沢(げんたく)という学者に、漂流民たちは航海の様子やその途中で見たり聞いたりしたことを話しました。その聞き取りの結果は、その後『環海異聞(かんかいいぶん)』という本にまとめられました。その当時、日本は鎖国でしたが、一部の人たちは海外の様子を知りたくて知りたくていたので、『環海異聞』は大変貴重な記録となり、たくさんの写本(しゃほん)が作られることになりました。

 江戸での取り調べが終わり、4人の漂流民がふるさとに向かって江戸を出発したのは1805年2月のことでした。長崎で自殺を図った多十郎は、ふるさとにもどってまもなく4月1日になくなってしまいました。

5 今年(2004年)は漂流民帰国200年

石巻若宮丸漂流民の会 結成

 以上、日本で初めて世界一周をした若宮丸漂流民の足跡をかけ足で見てきました。この経験はこれまで地元でもあまり知られることがなかったのですが、2001年12月に若宮丸の地元石巻市で“石巻若宮丸漂流民の会”が結成され、関心が高まってきました。

 そして、今年2004年こそ、4人の若宮丸漂流民が長崎に戻ってから200年という記念すべき年にあたっているのです。


 わたしたちの地元宮城県に、このような歴史がうもれていたことをみなさんは知っていましたか。若宮丸のことについては、まだまだ分からないことがたくさんあります。帰国した4人のその後の生き方、ロシアに残った人たちの生き方や墓などなど。若宮丸の研究は、今、始まったばかりなのかも知れません。

儀兵衛・多十郎のロシア漂流碑(鳴瀬町室浜)

●儀兵衛・多十郎のロシア漂流碑(鳴瀬町室浜)

多十郎がロシア皇帝からいただいた上着

●多十郎がロシア皇帝からいただいた上着

若宮丸遭難供養碑

●若宮丸遭難供養碑

観音寺境内の墓碑

●観音寺境内の墓碑