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2002.04.16

会報記事から
【連載】ナジェージダ号世界一周の旅 
 第1回 出航からコペンハーゲンまで

会報Vol.1 No.2に掲載した「【連載】ナジェージダ号世界一周の旅」から「第一回 出航からコペンハーゲンまで」を転載します。

ナジェージダ号世界一周の旅をレザーノフの航海日記と、クルーゼンシュテルン、環海異聞の記述を平行してたどっていきます。第一回目は、クロンシュタット港を出てから、コペンハーゲンに着くまでを見ていきます。

【連載】ナジェージダ号世界一周の旅
 第1回 出航からコペンハーゲンまで

 世界一周の旅に就いた船はナジェージダ号とネヴァ号の二隻。ナジェージダ号には、クルーゼンシュテルン以下七十六名、この中にはレザーノフの随員六名と、善六ほか五人の日本人が含まれていた。ネヴァ号は、クルーゼンシュテルンとともにイギリス留学した友人リシャンスキイを艦長に、五十四名が乗り組んでいた。
船は、コペンハーゲン、フォルマス(イギリス)、サンタ・クルス(スペイン領アフリカ)、サンタ・カタリナ島(ブラジル沖)、マルケサス諸島に錨を下ろし、水と食料を補給しながら、およそ一年かけて、カムチャッカのペトロパヴロフスクに着いている。
今回は、出発からコペンハーゲンまでの旅を追いかけることにする。
ここではレザーノフの航海日記だけでなく、クルーゼンシュテルンの航海日記、『環海異聞』も参照していこうと思っている。この場合それぞれが使用している暦をそのまま引用していることをあらかじめお断りしておきたい。つまりレザーノフの日付はロシア暦、クルーゼンシュテルンは新暦、津太夫は、日本の旧暦をつかっている。

クロンシュタット出発

 一八○三年七月二十一日(新暦八月二日)、新蔵に付き添われた若宮丸漂流民たちは、クロンシュタット港に到着する。ここで津太夫たちは新蔵と最後の別れをかわした。
七月二十六日(新暦八月七日)朝八時、レザーノフはルミャンツェフから、「風向きが良ければ、錨をあげ、出帆するように」という皇帝の署名が入った命令書を受け取る。
いよいよナジェージダ号とネヴァ号が世界一周の航海へ旅立つ日がやってきた。レザーノフは艦長クルーゼンシュテルンを呼び、この命令書を読み上げ、出航準備に取りかかるよう命じた。
風が南西から南東に変わりはじめた。外海にでるチャンスであった。十時ナジェージダ号は錨をあげた。一斉に祝砲が放たれるなか、ナジェージダ号はクロンシュタット港をあとにした。
この時の模様をクルーゼンシュテルンは日記にこう書いている。

「一八〇三年八月七日(新暦)朝九時風は南西より南東に転じた。十時我等は帆をあげた。ハンニコフ提督は艦に訪れ来って、航海を祝福し、クロンシュタットより四マイルの沖の巡邏船まで我等の艦になって我等の行を送った。
八月二十日、コペンハーゲンに到着。」

 津太夫らは、この旅立ちとコペンハーゲンまでの航海について、『環海異聞』(巻之十二)で次のように語っている。 

 「六月十六日、昨日まで海上諸事の用意悉く調ひて出帆す、この辺、海のごとくなれども、二日間走る間は真水なり、手にくみて試みるに、塩気なかりき、次第に沖ぇ出るに従ひ、右の方に遠山雲霞の如く見ゆ、同十八日、ダンツケ〔デンマーク〕と云ふ国の海上を過ぐ、この所より全く海なりといふ。
按に、この海、和蘭にいふオ、ストセイなるべし、都より湊ぇ川つづき故、はじめの内は真水の如くにもありしにや、地図を併せ見て知るべし。
カナスダより二千四百里の海路を経て、七月四日頃と覚へて、ダンツケと云ふ国のコペイカワ〔コペンハーゲン〕と云ふ所に船をとどむ」

 クルーゼンシュテルンも、津太夫たちも淡々とコペンハーゲンまでの旅を振りかえっているが、レザーノフは初めての航海ということもあったのだろう、このおよそ二週間の航海を詳細に日記に記していた。

 「風は強かったり、弱かったりだった。しかしゴフランド(?)島に近づくにつれ、また向かい風になった。かなり激しい風で、時折突風をともなった。初めて船に乗った者たちは、激しい頭痛と吐き気に悩まされたが、少しずつ慣れてきた。ただビストロームだけは、激しい揺れで、ほとんど意識を失い、ずっと横になっていた。二九日凪ぎ始めた。日没時に完全な凪になった。このあとまた南西風を受け、5ノット、ときには9ノットのスピードで航海することができた。
三十日の夜中にタリンを通過した、一日にはエゼル島、ダーゴ島を経て、ついに私たちは、祖国に別れを告げ、異国の海へ入ることになった」

 レザーノフによれば、クロンシュタットをでて、六日かけてフィンランド湾を航海し、バルト海にでたことになる。
八月二日には、バルト海の真ん中にあるゴトランド島にかなり接近しながら通過している。レザーノフは島のなかにあった教会や屋敷、畑などがはっきりと肉眼で見えたと書いている。
やっと航海になれてきて、まわりの景色も楽しみながら、レザーノフの心の中にやっと余裕らしきものがでてきたこの日、事件が発生する。

 「とても素晴らしい日だった。私たちは満足感にひたっていた。しかし突然ネヴァ号で起きた不幸な事件で、一転、悲しい日になってしまった。ひとりの船員が海に落ちたのだ。すぐに艀が本船から投げ込まれたのだが、助けることはできなかった。私たちの航海の最初の犠牲者だった。どうぞ、この犠牲が最後でありますように!」

 航海が始まってすぐに、こんな事件が起きていたのだ。今回のレザーノフの旅を暗示する不吉な出来事だったといえるかもしれない。

 「八月四日朝六時にボーンホルム島を通過した。ひどい霧でものを見分けることができないくらいだった。 ここでカラムジン(ロシアの作家)がこの島のことをどれだけ見事に描いていたかを思い起こした。私の旅をあのような魔法の筆で描けるような才能を与えてくれなかった運命を呪わざるを得なかった」

 間近にスゥエーデン領の灯台を臨みながら、ナジェージダ号はこの夜、この近くに碇をおろす。もう最初の寄港地コペンハーゲンは目の前だった。
翌日朝五時に碇をあげて、このまま順調にコペンハーゲンまで航行できるかと思ったのだが、完全な凪になってしまう。コペンハーゲンまでは、三一・二マイルのところだった。
陸地を目の前にして、レザーノフはいてもたってもいられなくなっていた。彼は航海日記にこの時の自分の心境を正直に書いている。

 「どんな旅人でも公正を期さなくてはならない。だから私は正直に自分の弱さを隠すことなく伝えたい。一刻も早く陸に上がりたいという強い欲望が私を岸へと導いたのだ。私はフォッセ、フリードリッヒ、エスペンブルグと一緒にドラコという村でおり、ここで覆いのついた馬車を見つけ、ここから馬車でコペンハーゲンに向かったのである」

 そして昼過ぎにレザーノフ一行は、コペンハーゲンのホテルで荷をほどくことができたのだ。

 「ここで私たちは、美味しい料理と、すばらしくいい調度品がそろった二階建ての家を見つけることができた。すぐにここを私たちの仮のすまいとすることにした」

 この日の夕方六時クルーゼンシュテルンが現れ、レザーノフは無事にナジェージダ号がコペンハーゲンに到着した報告を受けた。

 わずか二週間足らずの航海で、一喜一憂するレザーノフの姿を浮き彫りしているこの日記を読むと、よくも悪くもレザーノフは正直な人間だったと思う。クルーゼンシュテルンや津太夫のレポートは、船乗りとして事実だけを伝えている。初めて船に乗ったレザーノフは、船酔いに苦しみ、船員の死に落ち込み、素晴らしい光景を描くことができない自分の才能を呪い、そしてもう少し我慢すれば目的地に着くにもかかわらず、上陸したいという誘惑に勝てずに、一足先に下船してしまう。それをすべて日記に書きとめてしまうのが、レザーノフだった。
 これはまだ旅のはじまりのはじまりだった。
 レザーノフの前には、まだまださまざまなことが待ち受けているのである。


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