石巻若宮丸漂流民の会
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お別れの言葉――吉村昭さんへ

2006.09.18
大島 幹雄

 吉村昭さんが、7月31日亡くなられた。初めて訃報に接したとき、2年前鳴瀬(現東松島市)での講演会であれだけお元気な姿を見ているだけに、とても驚いた。そして悲しかった。

 吉村さんは、当会にとっては精神的な意味で支柱であり、また恩人であった。
 2003年に出版された『漂流記の魅力』は、若宮丸漂流民のことを初めて広く紹介したものだった。地元でもあまり知られていなかった若宮丸漂流民のことが、吉村さんという歴史小説の第一人者の手によって紹介されたこと、これは当会に大きな勇気を与えてくれた。そして2004年に開催された『初めて世界一周した日本人展』の関連イベントとして企画された講演会に出ていただいた。無茶な申し出に対して吉村さんは快く破格の条件で講演を引き受けてくれた。吉村さんのこの時の講演は、当会だけでなく、講演会の会場となった鳴瀬の人たちに大きな力を与えることになった。吉村さんは講演会の前に、何年ぶりかで太十郎のジャケットと再会し、その痛みの激しさにショックを受け、講演会でその保存を呼び掛け、さらには「オール読物」でも保存を訴えるエッセイを発表した。これが鳴瀬の人々を動かし、太十郎のジャケットは町の重要文化財に指定され、いまでは縄文館でガラスケースに保存され展示されることになった。太十郎が持ち帰ったジャケットがこのように後世に伝えられたこと、それは吉村さんのおかげである。
 最初に講演をお願いした手紙の吉村さんの返事には「お世話になりましたので、講演の件承諾いたします」と書かれていた。吉村さんは『漂流記の魅力』の取材のために何度か石巻や室浜を訪れた時に、当時会長だった石垣宏氏に案内してもらっているし、ロシア語の文献に書かれたことで、私に何度か問い合わせをしてきたことがあり、そのことに対しての、「お世話になりました」といういうことなのかと最初は思った。いまいろいろ思い返すと、それは個人とか会とかではなく、吉村さんが題材として選んだ土地、あるいは人、つまりは歴史に対しての言葉だったのではないかと思うようになった。

 吉村さんは、何年か振りで太十郎のジャケットと再会したときに、その痛みに唖然とし、何度も何度もなんとかなりませんかねと、おっしゃっていた。講演会の壇上からもその保存を訴えていた。こんな短期間にどうしてこんなに痛むのかということを質問した時に、鳴瀬の方が「見せてくれという人が多くて、みんな手で触ってしまうからでしょうね」というようなことを答えた。おそらく吉村さんは、この言葉を重く受けとめられていたのではないかと思う。この半年後に書かれた「オール読物」でのエッセイで、吉村さんはこう書いている。
 「太十郎の子孫の家では、展示会に貸出したり、見学者に取り出して見せたりして、そのため衣服の痛みが増しているという。繊維にまでふれた私もその罪の一端を負わなければならず、まことに恥ずかしい思いがした」
 自分も触った当事者である、それで痛みが進行したのであれば、それに対する償いをしなければならない、そんな風な切羽詰まった思いをこのように受けとめる作家がいたということに私は感動した。歴史小説を書くために、厳しく事実をつきとめる、それが吉村さんの基本的な態度であった。それだからこそその歴史に触れたその恩義、責任ということを重く受けとめようとしたのだろう、と思う。
 鳴瀬郷土史友の会の皆さんを中心に、この保存が決まったという報せを吉村さんに伝えると、すぐにFAXで返事が送られてきた。
 「他処者である私が、つい、保存をと申し上げたのですが、それをお取り上げいただいた漂流民の会の方々の寛容さに心から敬意を表します。漂流民の持帰った唯一のもので、町の文化財指定によりあの衣服が燦然とした輝きを放ち、後の世に伝えられます。皆さまに感謝します」
 吉村さんのおかげで太十郎のジャケットが保存されたのに、吉村さんはそれに対してこのような美しい言葉で、私たちの会に対して感謝の辞まで述べられているのである。
 なにかのエッセイで、吉村さんが百回以上訪れたという長崎で大型客船製造中に火災が発生したとき、吉村さんが地元の新聞に、これに挫けず長崎の人にはがんばってもらいたいという投稿をしたという話を読んだことがある。これだけ作家として名声を博している人が、わざわざこんな投書をするだろうか。そして太十郎のジャケット保存が決まった時に、こんなメッセージをわざわざ寄せるだろうか。
 歴史小説をどうして吉村さんはあれほどまでに事実にこだわり書いたのか、それは歴史という運命に翻弄されながらも、そこに立ち向かって生きた人々の想いを後世に伝えるためにこそ事実を書かねばということだったと思う。そしてそれは作家によって歴史を利用してはいけないという厳しい姿勢に通じると思う。

 8月21日に開かれた「吉村昭さんとのお別れ会」に、石巻若宮丸漂流民の会を代表するつもりで出席し、吉村さんとお別れしてきた。会場に入りきれないほど参列者が集まった会だった。吉村さんのお別れ会らしく、とても律儀な会だった。できるなら勝手に逝かしてくれよ、でもそんなわけにもいかないだろうな、であればこんな風にということなのだと思った。1年半前に舌ガンが発覚してから治療を受けながら、それをひた隠しておられたこと、今年一月に舌ガン切除の手術をする前にPET検診を受け、そこで膵臓ガンでもあったことがわかったこと、それでも一時退院されてからは書くことだけが、その痛みや苦しみから逃れる唯一の愉しみとなったことが長男の司さんの話から明らかになった。
 胸をうたれたのは、最後に挨拶された、夫人の津村節子さんの言葉だった。この挨拶によって明らかにされた吉村さんの壮絶な死のドラマは、新聞・雑誌にも紹介されているので、ご存じの方はおられると思う。吉村さんが自ら点滴の管をとったという話がクローズアップされているが、この津村さんの話のなかで、私は個人的には、入院していた時、家へ帰りたいとおっしゃっていた先生の希望をくみなんとか退院させた経緯にふれた部分、そしてやっと自宅に戻りそれでもなお最後の原稿の推敲をしていたこと、それがほんとうに救いの道であったと津村さんが淡々と語っていたこと、それが印象に残っている。そして自ら点滴を外したこと、それについてはいろいろな見方があると思う。歴史に対して、厳しく謙虚に、そして自分の死後についても律儀に対峙した吉村さんらしい死の選択だった、そして立派な死だったと、私は思っている。
 弔辞を述べられた高井有一さんが、運命に翻弄されながらもそれでも精一杯生きた人々を対象に描き続けていた作家だった、そしてそれでも精一杯生きても報われない宿命のようなものがあることを見つめていた人でしたというようなことを言っていた。吉村文学の本質をついた言葉だと思う。最後の長編となった「彰義隊」のあの切なさこそ、吉村文学の魅力なのだと思う。英雄ではなく、必死に運命や宿命と闘い続けた人々を書く、そのことに私たちは感動し、励まされた。

 吉村さんから最初に電話をいただいたのは2002年の秋だった。それから手紙やFAXでやりとりがはじまった。私のような日曜作家に対して、吉村さんは日本文芸家協会の会員になるように薦め、そのために吉村さんは津村さんと一緒に推薦人にまでなっていただいた。そんなこともありいろいろな機会に乗じて、吉村さんに善六のことを書いてください、そのためだったら、なんでもしますと何度も書いた。いま思えば吉村さんのような作家になんという身の程知らずの手紙を書いたのだろうと思う。当然のことだが、吉村さんはこの件についてずっと沈黙を守った。
 ただ二年前の講演会で、吉村さんは善六について触れた時に、これについては大島さんがやっていますのでということをおっしゃった。これを吉村さんの返事だと、思うことにした。私にまかせるということ意味でおっしゃったのではないのは十分承知の上、そう勝手に解釈することにした。『魯西亜から来た日本人−善六物語』という本をすでに出しているが、ある意味非常に不満が残る本だった。それは歴史というものを勝手に自分流に料理したからに他ならない。歴史を相手にものを書く時、作家が歴史を利用してはいけない、その吉村さんの姿勢を継いだかたちで、私はほんとうの「若宮丸漂流民」の物語を書きたいと思っている。

 吉村さんからの最後のハガキは今年の四月のものだった。「『環海異聞』の資料展示の報告がありました。次第に漂流記が表立ったようになりますね。皆様によろしくお伝えください」とあった。
 この皆様とは誰なのなのだろう、私たちの会の皆様という意味もあると思うが、もっともっと深い意味での、言葉なのではないかと思っている。それは例えば津太夫や太十郎など、若宮丸漂流民のこともふくむ、歴史のなかで懸命に生きた人たち、宿命に立ち向かった人たちへの言葉だと思っている。

 吉村さん、ありがとうございました。そして安らかにお眠りください。

(会報15号より転載)


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