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【特別記事】クマのロシア通信

第1号 3月17日朝

 モスクワに着いてはや3日が過ぎてしまった。ちょっと体調を崩したこともあって、よく寝ている。体調を崩したというのは、モスクワの予想もしなかった暖かさにある。今回はシベリアに行くというので、零下30度に対応できるコートを着てきたのだが、こんなぶあついコートなど着ている人はまわりにいない。着いたときのモスクワの気温は4度、晴天の日がずっと続いている。ということで汗をかき、そのままにしていたことで、風邪をひいてしまった。今回ずっと付いてくれているA氏が、買ってくれた風邪薬を飲んで、だいぶよくはなってきた。



第一日目(3月14日)
 久しぶりのモスクワだ。空港に迎えにきてくれたペーチャに、「会うのは何年ぶりになるのだろう」と聞いたら、「5年ぶりだ」と聞いてびっくりしてしまった。ペーチャは「会えなくなったのは、私のせいではない、お前に別の恋人ができたから」という唄があるぞと言っていたが、たしかに、このところロシアよりは、ウクライナ、カザフスタンに行くことが多かったし、サーカスのアーティストもロシアから呼ぶことがなかった。
 驚いたのは、町が明るく、色彩に富んでいたこと。ライトアップしているところもある、電飾広告の数もずいぶん増えている。ショーウィンドウも明るく、垢抜けている。マネージ広場に面したモスクワホテルに宿泊しているのだが、土曜日の夜などは若者たちが群がっていた。まるで渋谷のセンター街である。



第二日目(3月15日)
 仕事の方はとりあえず順調にすすんでいる。着いた翌日15日に、秋に招聘する民族アンサンブルのメンバーのビデオ撮影をするため、モスクワの隣町クラスノゴールスクの文化会館へ。ここで写真とビデオの撮影が終わった後、この会館の館長で、今回の秋の公演にボーカリストとして参加するトカッチ氏のキャビネットで、公演の詳細について打合せ。このおじさん、ウォッカをとりだし、「乾杯しない、理由はない」といいながら、何度も乾杯することになった。一緒に行ったAとペーチャは車を運転しているので、飲むのは、トカッチ氏とスコモローヒのリーダー、ジーマ。結局2年のウォッカを空けてしまった。いつものように、最後は競い合ってアネクドート(笑い小話)を披露するというパターン。他のメンバーもみんな陽気そうだったし、秋に再会するのが楽しみだ。
 クラスノゴールスクには、映画記録フォンドアルヒーフがあった。トカッチ氏いわく、いつでもここの所長を紹介するとのこと。
 この打合せが終わった後、ニクーリンサーカスを見に行く。7時から始まると思っていたので、その時間にあわせて行ったのだが、今日は休日ということで、6時開演、休憩後から観覧。Aはおととい接待で、ここに来て同じプログラムを見ていた。客席もガラガラで、内容もひどかったと言っていたが、確かに華やかさもないし、驚くような芸もなかった。サーカス場の前にあるニクーリンの彫像のところで記念撮影。
 この日の夜から風邪の兆候。



第三日目(3月16日)
 この日は2時から、夏休みに招聘することになっているアーティストと打合せ。それまでは、朝食をとった以外はとにかくずっと寝ていた。
 空中ブランコ乗りのマーシャとアシスタントをする夫のミーシャと1時間ほど打合せ。結構シビアな話になった。ブランコの設置については問題はなさそう。経済的条件についてもう一度詰めないといけないようだ。

 打合せを終え、Aと合流して、Aの運転で、ナルフォミンスクへ向かう。出発前にAが薬を買ってくれて、それを飲む。身体が暖まってくる感じ。車の中ではほとんど寝ていた。ナルフォミンスクに行くのは、7年ぶりになるのだろうか。モスクワから1時間ほど走ると、ナルフォミンスクに入る。白樺林に小川、静けさがあたりをおおう。カメンスカヤの小さな集落で車をとめ、通りがかった若者ふたりに、ペーチャがアレクセイ・ヤマサキのアパートの所在を聞く。車の中から、この様子を見ていたのだが、ペーチャの顔に一瞬かげがさした。ペーチャは私を呼んだ。ふたりでアパートへ。ベルを鳴らすと、ヤマサキの奥さんが出てきた。ペーチャが覚えているか?と聞くと、奥さんが泣き出した。ヤマサキ・アレクセイは2年前に死んだという。私は言葉を失ってしまった。
 車をとめたAもやって来て、居間で奥さんの話を聞く。2001年4月21日の朝のことだった。アレクセイは、いつものように朝起きて、コーヒーを飲んだ。まったく異常は見られなかったのだが、突然頭が痛いと、頭を押さえ、通りに出て、痛い痛いと叫び、そのまま倒れてしまった。すぐに医者を呼んだが、2時間後には亡くなった。あまりにも突然の死だった。奥さんは何度も途中でハンカチで目をおさえながら、悲しみに耐えながら、語ってくれた。あれだけエネルギッシュで、仕事が好きだった夫の、あまりにも突然の死がいまだ信じられないようでもあった。ペーチャがアレクセイと一緒に再会を祝うために持ってきたウォッカは、アレクセイへの弔いのためになった。献盃を捧げることばを発するペーチャも泣き出した。悔しさで胸が一杯になった。あの時ここでアレクセイに、きっときっと日本にいるはずの親戚を探してやるからと約束したのだ。それを果たせないまま、アレクセイはあの世へ旅立ってしまったのだ。なんてことだろう。何もしなかったわけではない。アレクセイと会ってから、日本に戻り、新聞にヤマサキの親戚がどこかにいないかと記事を書かせてもらった。外交史料館にある旅券申請記録を二度も調べた。彼の名前があるはずだった。そうすれば本籍地の住所がわかるはずだった。しかしそれを探し出すことができなかった。「デラシネ通信」でも彼の出自について情報を求めた。加藤哲郎氏も自分のHPで広く情報を求めた。しかしなにひとつ情報を得ることができなかった。あれだけ日本にいる自分の親戚のことを知りたがっていたヤマサキに、なにも教えることができないままだった。奥さんの話によると、頬を撫でると「触らないでくれ、もう死ぬのだから」とうわ言のように言っていたという。

 夕闇が近づいてきた。日のあるうちに墓参りしようということになった。自宅から数百メートル離れたところに小さな墓地があった。アレクセイ・ヤマサキの顔が入った小さな墓が、雪のなかにあった。奥さんは写真の夫を慈しむように撫でながら、何かを涙ながらに語りかけていた。アレクセイはたばこが好きだった。たばこを吸って、線香がわりに墓に捧げた。悔しくて涙がとまらなくなった。あまりにもむごいではないか。まだ66歳だった。彼には、自分の父のことを知る権利があった。しかしなにも知らないまま、あの世にいってしまったのだ。それも突然に・・・
 ゆっくりと日が落ちてきた。奥さんと別れる時がやってきた。なんて悲しい再会だったのだろう。私は奥さんを抱きしめて、別れを告げた。奥さんは「あなたがここに来てくれた時、ほんとうに喜んでいたのですよ。本当に喜んでいたのですよ」と言ってくれた。また新たに涙がこみあげたきた。
 7年前にもこうしてこの通りで、アレクセイと別れを告げた。その時アレクセイは、今度来るときは「夏に、子どもを連れてくるといい」と言ってくれた。そして自分も今度来るときは「日本にいる親戚の情報を持ってくるから」と、笑いながら別れたのだ。なにもできなかったのだ。どうしようもない無力感が押し寄せてきた。

 粛清されたサーカス芸人ヤマサキ・キヨシについては、「デラシネ通信」創刊の時から、さまざまな情報を公開してきた。ヤマサキ・キヨシの調書、彼の出自をさぐる手がかりについて、そしてアレクセイと会ったときのこと、会ってから共同通信で流してもらった記事も公開してきた。しかし結果的にはなにも情報を得ることができなかった。少しでもなにか情報を得ないうちは、アレクセイに連絡できないと思っているうちに、時間は経ち、そしてアレクセイは亡くなった。なにか情報を得たからといって、アレクセイの死をくいとめることができないのはもちろんだ。それはわかっている。でも彼はほんとうに父ヤマサキ・キヨシのことを知りたがっていたのだ。その火をつけたのは、私であり、私にはそれを最後までなしとげる義務があったはずだ。それを果たすことができなかったのだ。悔しくてならない。時間は容赦なく去っていくのである。
 おそらくヤマサキ・キヨシの人生も、アレクセイ・ヤマサキの人生も、多くの人たちからすれば、とるに足らない物語であると思う。でもそのとるに足らない物語を、語らなければならない義務が自分にはある。それは、ヤマサキ・キヨシのためであり、アレクセイ・ヤマサキのためである。



 モスクワの朝、今日もホテルの窓から見える空は、真っ青だ。明日の夜、シベリアに飛び立つことになる。
 次の便りは、シベリアの町クラスノヤルスクからということになりそうだ。
          (3月17日午前モスクワホテルにて)

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