2002.01.09

クマとは何者か 2002年版

クマ

2002年に書いた編集長・クマの自己紹介です。

私の場合、自己紹介をする時、あるいは紹介してもらう時、ちょっと時間がかかってしまいます。まず自分がいま生業としていることについての説明に時間を要します。

「サーカスやクラウンを海外から呼ぶ仕事をしているのですが、それだけじゃなく日本人のパフォーマーのプロデュースもしています」と言うとすると、「どんなサーカスを呼ぶのですか?クラウンって何のこと?日本人のパフォーマーってなにをする人?」と質問を受け、これに答えるだけでも少なくても10分ぐらいはかかってしまいます。

そこでだいだい「変わった仕事ですね」と言われます。

ここで終わればいいのですが、相手によっては「本を何冊かだしているのですよ」という場合もあります。「サーカスのこととか、漂流民のこととか、冒険家のこととなんですが」と言うと、サーカスは仕事にしているから、なるほどと頷いてもらえるのですが、またここで「漂流民ってなんだ?、どんな冒険をした人?」と聞かれると、だいだい泥沼状態に陥ってしまいます。聞く人も関心があれば別ですが、あまり興味がない人は、たかが自己紹介なのに、なんでこんなに時間がかかるのかと、だいだい呆れられてしまいます。

なんでこんなに自分のことを紹介するのに、こんな手間がかかってしまうのだろうと思うことがままあるのです。いろいろ引きだしがあるのは確かなのでしょうが、いわいるマルチ人間とは違います。マルチ人間というと、才能があって器用な感じがしますが、私はそのまったく対極にいます。不器用だから、自己紹介すら満足にできないわけです。

要は自分の好きなことを、興味があることをその場の勢いだけでやっているわけです。この「デラシネ通信」も、サーカスとか、ロシアとか、漂流民とか、いちおうテーマらしきものはありますが、ごちゃごちゃになったおもちゃ箱みたいなもので、その時々の自分が気になったことを脈略もなく書き散らかしたものです。

とまたこんな風に何の役にも立たない紹介になってしまいました。

そこで2002年版「クマとは何者か」では、最近あるところに出した履歴書を掲載することにしました。少しはこの『デラシネ通信』編集長クマのことがわかっていただけるのではないかと思います。

ク マ の 履 歴 書
氏 名 大島幹雄
生年月日 1953年8月20日
本籍地 横浜市
出身地 宮城県石巻市
学     歴
1971年 宮城県仙台第二高等学校卒業
同年 早稲田大学第二文学部入学
1975年 同大学同学部文芸科卒業
マヤコフスキイ学院でロシア語を学ぶ
1976年 早稲田大学第一文学部ロシア文学科学士入学
1979年 同校卒業
職     歴
1979年 中央放送エージェンシーに入社
ソ連・東欧のサーカスや人形劇、演劇を招聘する仕事に携わる
国立ボリショイ舞台サーカス、国立モスクワ中央人形劇場、国立モスクワロメン劇場、国立レニングラードボリショイドラマ劇場、後楽園国立ボリショイサーカス、DDR国立ドイツ動物大サーカスなどの招聘、営業、制作の仕事をする。
1988年 同社を退社
1988年 株式会社アフタークラウディカンパニーに入社、現在に至る

ここでしてきた仕事は以下の通りです。

「サーカスレストラン」
ダスキンが千葉県市川市に1988年11月オープンした「カーニバルプラザ市川スタジアム・サーカスレストラン」のサーカスプロデューサーとしてダスキンと顧問契約。以後3年間にわたって、世界各国からおよそ100組のパフォーマーを招聘、ブッキングする。

「クラウンパフォーマンス」
1989年3月『ディミトリーのクラウンパフォーマンス』を招聘・企画、東京・ラフォーレ原宿、近鉄アート館などで公演。
これ以降毎年、ディミトリーの他に、ウクライナのミミクリーチ、イタリアのデュオアリンガなどを招聘する。

「世界のサーカス」
1992年3月 リトルワールド(愛知県犬山市)のために『ドイツインターナショナルサーカス』を招聘、企画。この後も毎年リトルワールドのために世界のサーカスショーを紹介。
『アフリカン・アクロバット』、『国立モンゴルサーカス』、『ロシア・スーパーサーカス』、『ヨーロッパサーカス』、『国立チェコサーカス』、『ロシア・スーパーキッズサーカス』、『国立カザフサーカス』などを招聘企画、プロデュース。
1996年7月 リナワールド(山形県上山市)のために『国立モンゴルサーカス』を招聘。以後『シルクロードサーカス』、『国立チェコサーカス』などを招聘、プロデュース。

「フェスティバル・その他」
1996年8月 白州(山梨県)アートキャンプのスタッフとして『国立モンゴルサーカス』、『ミミクリーチ』などをブッキング。
1998年より、横浜野毛大道芸フェスティバルのための特別ゲストとして『国立モンゴルサーカス』、『TO BE TWO』、『韓国伝統綱渡りチュルタギ』などをブッキング。

「劇場コメディー」
1998年3月より中野にあるスタジオplanBの企画委員として、日本人のパフォーマーをあつめたバラエティーショー『コメディーナイト』をプロデュース(2001年4月まで)。さらに2001年9月からこれを発展させたかたちで『カバレットB』のプロデュース。

その他の活動について
著作・翻訳 書籍ページを参照してください。
放送関係 ミミクリーチ出演コーディネイト(フジテレビ『ポンキッキーズ』
『地球ジグザグ-モスクワサーカス学校編』のコーディネイト
『情熱大陸-田中美佐子の綱渡り挑戦』のコーディネイト
ラジオ・ドキュメンタリー『我にナジェージダ(希望)あり』の企画・構成 (東北放送 1996年)
テレビ・ドキュメンタリー『二十世紀大サーカス-沢田豊国境のない旅』の企画・構成(民教協制作、全国放映 1997年)
会社以外での役職
「サーカス文化の会」事務局長

「石巻若宮丸漂流民の会」事務局長

早稲田大学非常勤講師
(文学部講座『サーカスのコスモロジー』98・99年)
(同『ロシア芸術の現在』01・02年)