2012.03.21

第16回 敗北の希望学-福島横断紀行 その2

承前

平潟へ

勿来海岸と鳥居

勿来海岸と鳥居

ハワイアンセンターポスター

ハワイアンセンター
ポスター

鳥居と瓦礫

鳥居と瓦礫

 11時すぎに勿来駅に到着した。目的地平潟港までは、車で5分とある。国道に沿って海を目指して歩く。20分ぐらい歩いたところで海が見えてきた。勿来海水浴場であった。シーズン前の平日ということもあるのだろう、広い浜辺には人っこひとりいない。浜辺を歩く。海がこんなに近くあるところを歩くのは久しぶりだが、なにか怖い気がしてくる。このあたりにも津波は押し寄せてきたはずだ。浜辺の真ん中にぽつんと立つ鳥居の姿が不気味だった。国道沿いには民宿や食堂もあるのだが、ほとんど閉店していたのは平日だったからなのか。

平潟港

平潟港

係留された漁船

係留された漁船

平潟魚市場

平潟魚市場

 ここから歩いて10分ぐらいのところに勿来港、そしてその隣に目指す平潟港があった。
 江戸時代平潟港は、仙台と江戸の間の海路で唯一の自然港だったという。この港を開発したのはあの河村瑞軒、そしてそれを指揮したのは、仙台藩であった。そういえばここから少し北にある塩屋岬沖で、若宮丸は嵐に遭遇していた。宮城とは縁があるのかもしれない。
 ちなみに福島原発はここから、40キロほど北にある。

 平潟港は静かな港だった。何隻もの漁船が碇泊していた。アンコウが有名らしい。もっともいまはシーズンではないだろう。港に面した民宿や温泉宿は、見かけは無事に見えるのだが、人気がまったくない。そして海岸の近くの道路は工事中、さらにはところどころに瓦礫の山が見られる。津波はここも襲っていたのだ。
 人気はないが、車の出入りは結構ある。よく見ると魚市場へ向かう車であった。ちょっとのぞいてみると、人でごった返している。セリの最中のようだ。遠目に見ただけなので、どんな魚が取引されているのかまではわからなかった。

八坂神社の鳥居

八坂神社の鳥居

神社から見えた平潟港

神社から見えた平潟港

東海岸突堤

東海岸突堤

小高い日和山

小高い日和山

被害のひどかった東海岸

被害のひどかった
東海岸

瓦礫のあと

瓦礫のあと

 この市場の近くに古い鳥居が立っている。八坂神社の入り口であった。階段を登って神社に行くと、小高い小さな森のなかにいくつも社があり、懐が深い、かなり大きな神社であった。
 勿来港の反対側、茨城よりのほうに行ってみる。ここには輪王宮が平潟に着いた時、休憩し着替えた慈眼院がある。
 この裏側に突堤があった。そこへ行くと涼しい風が吹いてくる。たまたま一緒になったおばあちゃんが、いい風だこととつぶやいていた。突堤の入り口に小さな丘があった。よく見ると日和山と書いてある。船乗りたちは、ここから日和を見たのだろうか。
あちこちに「地震になったら津波に注意」という看板がある。この突堤の右手を見て、思わず息を飲んでしまった。倒壊した家々と瓦礫の山が目に飛び込んできたのだ。堤防にテトラポットが組まれてはいたが、海と真正面と向き合っているこの地区に、津波は容赦なく襲いかかっていたのだ。この港を歩きながら感じていた不気味さの実体はすべてここにあった。大津波の被害は、茨城を超え、千葉まで及んでいる。そう知っていたはずなのだが、そちらの被害はあまり報道されることもなく、ここまでこんな大きな被害が及んでいたことに思い至らなかったわけだ。・・・それにしても太平洋沿岸にこうした光景が延々に続いているのかと思うと、胸が痛くなってくる。

源義家の歌碑

源義家の歌碑

勿来関跡

勿来関跡

奥州勿来関と騎馬像

奥州勿来関と騎馬像

 この港に別れを告げ、来た道を駅まで戻っていると途中勿来の関の入り口という看板が目に入る。勿来の関は、奥州三大関のひとつ、源義家の「吹く風をなこその関と思へども道もせに散る山桜かな」の和歌でもしられるところである。予定のない旅、ここを訪ねてみることにする。国道を左折すると道は坂道になっていた。車二台と通り合わせたぐらいで、まったく人気はない。うぐいすが啼く木立を横目にして、とにかく坂を登る。10分ぐらい歩いたところに勿来の関公園があった。これから開発される公園のようだ。ここに勿来文学館があった。今月一杯(6月一杯)は無料というので入ってみる。別にどうってことはないところだった。ここを出て、勿来を歌った和歌の碑をいくつか見ながら、関所跡に着く。ここには源義家の像もあった。ここから駅までは下り道。よくよく勿来という字を見ると、「来る勿(な)かれ」という意味だったことに気づく。来て欲しくなかったのかな・・・

いわき

勿来駅

勿来駅

 途中昼飯を食べて勿来駅に戻ってきたのは、14時前。いわきに向かう電車の時間まで1時間ちかくある。ホームでのんびり電車を待つことにする。誰もいないホームのベンチに座り、ひとりボーッと電車を待つ、ときおり風が通り抜ける。こうしてぼんやりひとりきりで待つ時間がいい、頭が空っぽになる。
 勿来からいわきまでは35分ほど、14時58分電車は静かにいわき駅のホームに入った。最初はいわきに泊まるつもりでいた。しかしインターネットで今日泊まれる部屋を見つけることができず、郡山に泊まることにした。磐越東線いわき発郡山行きの電車が出るまで、3時間ほど時間があったので、町の中を歩いてみる。途中ボランティアのゼッケンをつけた人たちを見かける。東横イン、サンルートといった駅前のホテルは閉鎖されたままであった。部屋がなかったのも無理はない。まだまだ地震の爪痕が町のあちこちに残っている。このあたりも間違いなく石巻や気仙沼、南三陸と同じように、地震、津波の被害をもろに受けたところだった。アイリスという立派な芸術施設までたどり着いた時、遠くで雷の音が。あわてて駅に戻ることにする。

ワンカップ栄川とあんこうの味噌焼き

ワンカップ栄川と
あんこうの味噌焼き

  電車がでるまで1時間近くあったので、駅の売店で栄川という地元の酒のワンカップと、つまみにアンコウの味噌焼きというのを買ってきて、ホームの椅子に座って電車を待つ。まもなく電車が入線、そのうちに雨が降り出す。電車に乗り込み、窓ガラスに雨の滴が何本もの川をつくるのを見ながら、ワンカップの栓をあけ、酒を一口飲む。

 3月11日私は愛知県犬山にいた。地震を感じることはなかった。横浜の自宅も無事だった。犬山にいる間、テレビの映像で、その惨劇が映し出されるのをただ黙って見るしかなかった。石巻で生まれ、仙台で18才まで暮らした、その生まれ故郷が、津波に流され、町が荒野となっていく。この光景をずっと見せつけられた。辛かった。胸がかきむしられるようだった。知人、親戚の安否も気になった。ここにいては何もできない、それはわかっていた。なんとかしなければという思いだけがふくらんでいった。

  震災後二週間後ぐらいだったと思う。「仙台学」という雑誌から今回の地震と津波について書いてもらいたいという依頼を受けた。地震を感じないところでずっといて、大きな被害もうけなかった自分が、書けることはそうあるものではない。犬山でロシアから来たサーカス団の人たちと共に過ごした体験を綴っただけなのだが、最後はこう締めた。
「私はいままで好きなように生きてきた。東京の大学に入る時故郷を去ってから、自分のためだけに一生懸命になってきた。東北がいま直面している未曾有の危機のなか、自分のことなんかどうでもいいではないか、これからは被災に遭った仲間たちの生活再建のため、そして故郷の復興のため生きていくべきではないか。何ができるか、いまはわからない、いっときだけの思いなのかもしれない、でも残された人生の全てとはいわなくても、少なくても半分以上は被災した人たちの生活再建のため、そして故郷復興のために捧げなくてはならない。これだけは決めている。」
 正直な気持ちである。この気持ちはいまでも同じだ。でも一体自分にできることはなんなのだろう。そんなことをずっと考えていた。おそらく全国にこのように考えている人は、たくさんいるのだと思う。自分は何ができるのか、ちびりちびり酒を飲みながら雨の滴を見ながら、またそんなことに思いを馳せる。

 

磐梯東線沿線

磐梯東線沿線

磐梯東線の車窓から

磐梯東線の車窓から

 ゆっくりと電車が線路を滑り出した。
電車は阿武隈山中をゆっくり走っていく。雨と霧の中に畑や森、山々が浮かび上がる。幻想的なシーンが車窓の向こうに続いていく。途中の小野新町駅が終点、ここで20分ほどまた待つ。ここはたしか小野小町の伝説が伝わるところだったのではないだろうか。
 まもなく郡山方面から来た電車が到着、そのまま折り返し電車となり、ここから20分ほどで郡山に着いた。ホテルは、駅から車で5分、また車で5分である。やはり20分近く歩いてやっと到着。ホテルに着いたあと、腹が減ったので、近くの居酒屋「桃太郎」に入る。桃太郎という名前が気に入った。ここでビールと栄川を3合のみ、刺身を食べてやっと落ち着く。

 ほんとうに良く歩いた一日だった。シャワーを浴びるとき、腕がヒリヒリした。すっかり日焼けしていた。

続く