第81回~第90回 桑野塾の開催概要と内容
第81回~ 桑野塾の開催概要と内容です。
第81回
●「ダヴィド・オイストラフの初来日 芸術の“鉄のカーテン”が開くとき」梅津紀雄
- 2024年9月28日(土) 午後3時
- 早稲田大学戸山キャンパス36号館 581教室
●「ダヴィド・オイストラフの初来日 芸術の“鉄のカーテン”が開くとき」梅津紀雄
ダヴィド・オイストラフ
(Давид Фёдорович Ойстрах 1908-1974)
写真:Oistrakh in 1972 英語版Wikipediaより
https://en.wikipedia.org/wiki/David_Oistrakh
都体育館での演奏会
CD「オイストラフ ライヴ・イン・ジャパン1955」
(オクタヴィア・レコード)
1955年、ヴァイオリニストのダヴィド・オイストラフがソ連から来訪した。訪日以前から「奇跡の演奏家」として喧伝されていたオイストラフはその期待に十分に応える演奏会を行った。この結果として、日本側はソ連の芸術文化に開眼し、ソ連側は芸術を受け入れる日本の潜在力を理解し、その後の交流の展開の基礎が築かれることになった。
この重要な要因の一つは、もちろん、オイストラフの卓越した技量にあったことは疑いないが、それに加えて、来日のタイミングも絶妙なものであった。彼は戦後ソ連から初めて訪れた音楽家であって、日ソの国交回復を翌年に控えていた。そしてそれはスターリンの死の2年後でもあり、スターリンから遅れて2日後には、日本で多くのヴァイオリン奏者を育てたモギレフスキーも亡くなっていた。
こうした事情を照らし合わせ、定期刊行物やアーカイヴ資料を参照しながら、彼の初来日の意義を改めて検討してみたい。
●梅津 紀雄(うめつ のりお):
1966年福島県生まれ。埼玉大学・工学院大学ほか非常勤講師。表象文化論、日露文化交流史。
著書に『ショスタコーヴィチ 揺れる作曲家像と作品解釈』(東洋書店、2006年)、共著に『自叙の迷宮 近代ロシア文化における自伝的言説』(水声社、2018年)、共訳著にフランシス・マース『ロシア音楽史 《カマーリンスカヤ》から《バービイ・ヤール》まで』(春秋社、2006年)ほか
第82回
●「ソ連秘密警察幹部(スターリンの寵臣)の日本亡命
~現下のロシアによるウクライナ侵略を遠景に捉えながら~」上杉 一紀
- 2024年11月16日(土) 午後3時
- 早稲田大学戸山キャンパス36号館 682教室
●「ソ連秘密警察幹部(スターリンの寵臣)の日本亡命
~現下のロシアによるウクライナ侵略を遠景に捉えながら~」上杉 一紀
フルシチョフによる「スターリン批判」(1956)に20年近く先駆けて、他国には厳重に秘匿されていた恐怖政治の実態を、日本から世界に向けて告発したソ連秘密警察の高官がいた。日中戦争勃発のタイミングで、NKVD(内務人民委員部)の中央幹部から極東地方本部のトップに転出したゲンリフ・リュシコフだ。ウクライナ生まれのユダヤ人。彼の名は、緊迫する満ソ国境を舞台に起きた亡命事件の主役として当時の日本人に強い衝撃を伴って記憶されたが、やがて忘れられた。
唯一神としての地位を没するまで保ち続けたスターリンは、側近と呼んでいい党、軍、秘密警察の高官を容赦なく使い捨てた。忠誠心を試す形で、国民の憎まれ役をあれこれ務めさせておいて、その口封じをするかのように銃殺、あるいは収容所送りにする。前年まで確かにスターリンの寵臣だったリュシコフさえ、さすがに動揺し葛藤した。熟考の結果が、一か八かの国外逃亡だった。1938年夏のことだ。
トロツキーを除けば、ソ連史上最高位の海外亡命者(=裏切者)とされるリュシコフのソ連邦論、人柄、亡命後に果たした役割、私生活、そして最期の時はどうだったか。伝説のスパイ、ゾルゲはモスクワからの厳命を受け、リュシコフ関連情報を掴もうと危ない橋を渡る……。
日ソ秘密戦の観点から、ソ連崩壊後の研究成果を踏まえ、歴史の闇に消えた亡命者の軌跡をあらためて辿り直す。その試みはおのずから、現下のウクライナ侵略戦争をも遠景に捉えるものになるはずだ。
●上杉 一紀(うえすぎ かずのり):
日本放送作家協会会員。1953年札幌生まれ。早稲田大法学部卒。元北海道テレビ放送勤務。主にニュース、ドキュメンタリー制作など報道畑を歩いた。著書に『ロシアにアメリカを建てた男』(旬報社)、『ロマノフの消えた金塊』(東洋書店新社)、『ソ連秘密警察リュシコフ大将の日本亡命』(彩図社)
第83回
●「国民総抵抗としてのウクライナ戦争
~そしてわが祖国 日本の「平和主義」」高世 仁
- 2025年2月1日(土) 午後3時
- 早稲田大学戸山キャンパス36号館 681教室
●「国民総抵抗としてのウクライナ戦争~そしてわが祖国 日本の「平和主義」~」高世 仁
23年秋にウクライナを取材した。強く印象づけられたのは、汚職だらけの政府への不信感と、その政府をあてにせずに国民一人ひとりが自ら戦争を支えようとする熱意だった。マックスという青年は大学を休学し、危険な前線近くまで出かけて、兵士と住民に食糧や薬品を届けるボランティア活動をしていた。いつ死んでも不思議でない状況で活動を続けるわけを聞くと「私の同胞とこれから生まれてくる子どもたちのため」と答えた。
日本であまり知られていないのは、ウクライナが戦争と並行して初めての国民国家の建設を進めていることだ。そしてその国家統合の原理は民族的(エスニック)なものを卒業して市民的(シヴィック)なものへと移行している。ウクライナの人々の抵抗精神を支えているのは、ロシアのような国を作りたくないという強い意思である。
私の取材から見えたウクライナ戦争の実態を語りたい。もう一つ問題提起したいのは、いま進行中の戦争を日本に住む私たちがどうとらえるのかである。
帰国後、ウクライナの人びとの戦いを語ると、「ここが日本でよかった」という感想が返ってくる。戦争の当事者が“私”でないことに安堵するのである。「なぜウクライナが戦うのかわからない」との声もよく聞く。日本人は、命をかけて同胞のために尽くすウクライナ人に共感できなくなっているようだ。
ウクライナの人々の希望は「平和」ではなく「勝利」である。これを私たちは理解できるのか。日本人は国が侵略された場合に「戦う」と答える人は13.2%しかおらず、世界で突出して最下位。これは日本の「平和主義」の現れとして誇っていいのか?
ウクライナ戦争から日本人の「平和」についての考え方、さらには人が生きて死ぬ意味を考え直してみたい。
●高世 仁(たかせ ひとし):
「日本電波ニュース社」報道部長を経てテレビ制作会社「ジン・ネット」を主宰。主に海外の報道・ドキュメンタリー番組を制作してきた。2020年以降はフリーのジャーナリストとして活動している。著書に『拉致―北朝鮮の国家犯罪』、『チェルノブイリの今―フクシマへの教訓』(DVD出版)、共著に『イスラム国とは何か』、『ジャーナリストはなぜ「戦場」へ行くのか』、『中村哲という希望』など。
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