home > 桑野塾 > これまでの桑野塾 第51回~第60回

2018.09.03 / 更新2020.01.14

第51回~ 桑野塾の開催概要と内容

第51回~ 桑野塾の開催概要と内容です。

  • 第51回 ●「プロコフィエフ来日100周年―1918年夏の日本滞在64日間を検証する」沼辺 信一
  • 第52回 ●「ゲットー蜂起75周年のワルシャワ・ユダヤ音楽祭レポート!」大熊ワタル&みわぞう(ジンタらムータ)
  • 第53回 ●「アクロバット、戦前戦後の日米を駆け抜ける」青木 深
  • 第54回 ●「サンクトペテルブルグでサーカスと漂流民を追う」大島幹雄
  • 第55回 ●「731部隊と戦後日本ーー民族優生思想から『不幸な子供を産まない運動』へ」加藤哲郎
  • 第56回 ●「マレーヴィチはヴィテプスクで何を夢見たか?」沼辺信一
  • 第57回 ●「群棲する都市—1960-70年代におけるソ連建築家グループNERの試み」鈴木佑也
         ●「絵グラフで見るソ連—イゾスタトによるグラフィック・デザインの冒険」河村彩
  • 第58回 ●「関口存男とは何者なのか ―その生涯を再検証する試み―」柴田 明子
         ●「ブルリュークの頃のシベリアの紙幣」鈴木 明
  • 第59回 ●「『ロマノフの消えた金塊』~地下水脈をたどって(シベリア出兵を背景に)」上杉一紀
         ●「日本バレエ教育史の転換点 チャイコフスキー記念東京バレエ学校(1960-1964)とソヴィエト・バレエ」斎藤 慶子
  • 第60回 ●「ラジスラフ・ストナル(1897-1976)のカタログデザイン論とアヴァンギャルド」大平陽一
         ●「映像で見るロシア・アヴァンギャルド」井上 徹

第51回
●「プロコフィエフ来日100周年―1918年夏の日本滞在64日間を検証する」沼辺 信一

  • 2018年9月29日(土) 午後3時~6時
  • 早稲田キャンパス33号館434号室

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●「プロコフィエフ来日100周年―1918年夏の日本滞在64日間を検証する」沼辺 信一

東京・赤坂溜池の料亭「花月」でのプロコフィエフ(1918年7月2日)

東京・赤坂溜池の料亭「花月」での
プロコフィエフ(1918年7月2日)

別れの挨拶に訪れたプロコフィエフ、大田黒元雄夫妻と(1918年8月1日)

別れの挨拶に訪れたプロコフィエフ、
大田黒元雄夫妻と(1918年8月1日)

プロコフィエフも弾いたピアノによるCD《大田黒元雄のピアノ》演奏=青柳いづみこ、高橋悠治(ALM Records, 2016年録音)

プロコフィエフも弾いたピアノによる
CD《大田黒元雄のピアノ》
演奏=青柳いづみこ、高橋悠治
(ALM Records, 2016年録音)

 1918年6月1日、27歳の作曲家セルゲイ・プロコフィエフは東京駅に降りたちました。ロシア革命の騒乱を嫌い、新天地アメリカでの成功を夢見た彼は、シベリア鉄道と客船を乗り継いで、通過地点として日本に立ち寄ったのです。
 いくつかの偶然が重なり、プロコフィエフは日本に二か月間も滞在し、京都、奈良、軽井沢、箱根などを旅したほか、東京と横浜で国外初のピアノ・リサイタルまで開催しています。驚いたことに、若き作曲家の評判は極東の島国まで届いていました。評論家の大田黒元雄はプロコフィエフと親しく交際して、その言動を詳しく書きとどめ、愛好家の徳川頼貞は彼にピアノ・ソナタを注文しようとしています。
 来日100周年を記念して、プロコフィエフの日記や、大田黒と徳川が書き残した記録を読み解き、日本での彼の足取りを辿りながら、「プロコフィエフの生涯で最も謎めいていた二か月間」を検証します。来日時にプロコフィエフも弾いた大田黒元雄旧蔵のピアノによる演奏(CD)もお聞かせします。

●沼辺 信一(ぬまべ しんいち):編集者・研究家。
1952年生。ロシア絵本の伝播、日本人とバレエ・リュス、プロコフィエフの日本滞在など、
越境する20世紀芸術史を探索。桑野塾登場は五回目。
ブログ http://numabe.exblog.jp/

 

第52回
●「ゲットー蜂起75周年のワルシャワ・ユダヤ音楽祭レポート!」
大熊ワタル&みわぞう(ジンタらムータ)

  • 2018年11月24日(土) 午後3時~5時50分
  • 早稲田大学 戸山キャンパス33号館231号室

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●「ゲットー蜂起75周年のワルシャワ・ユダヤ音楽祭レポート!」大熊ワタル&みわぞう(ジンタらムータ)

ジンタらムータ@Festiwal Warszawa Singera

ジンタらムータ
@Festiwal Warszawa Singera

ワルシャワにて

ワルシャワにて

ゲットー蜂起75周年の夏、ワルシャワで開催された欧州最大級のユダヤ音楽祭
「Festiwal Warszawa Singera(SINGER'S WARSAW)」に招かれたジンタらムータが
中東欧ユダヤ(アシュケナージ)の民衆音楽クレズマーを通じて出会った
現代ポーランドと永遠の移民ユダヤの交錯する歴史・記憶!

 

●大熊 ワタル(おおくま わたる)
1960年広島県生まれ。
前衛ロックを経てチンドン屋に入門し、街頭でクラリネット修行。
90年代、クラリネット奏者として自己のグループを始動、添田唖蝉坊の墓碑銘にちなみCICALA-MVTAと命名。即興性・実験性と祝祭感が同居した超ジャンル的な音楽性が話題となる。
近年はよりアコースティックなチンドンユニット・ジンタらムータでの活動でも知られる。身体性、即興性に富んだアプローチで、映画・演劇・サーカスとのコラボレーションなど様々なプロジェクトに参加。チンドン・クレズマーの独自スタイルが話題となり、各国のクレズマー・フェスティバルから招聘が続いている。

●こぐれ みわぞう
チンドン太鼓、ヴォーカル、箏
幼少時より箏曲山田流を始め、11歳で師範名取襲名。演劇活動を経て、1997年ソウル・フラワー・モノノケ・サミットに参加しチンドン太鼓を始める。
シカラムータ・ジンタらムータを中心に、ダイナミックかつ華麗な演奏スタイルで新世代チンドンの旗手として活躍。
近年は歌手活動も本格化、ブレヒトソング、イディッシュ歌謡などに取り組む。

ジンタらムータ Webサイト http://www.cicala-mvta.com/

第53回
●「アクロバット、戦前戦後の日米を駆け抜ける」青木 深

  • 2019年1月19日(土) 午後3時~5時50分
  • 早稲田大学 戸山キャンパス33号館231号室

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●「アクロバット、戦前戦後の日米を駆け抜ける」青木 深

アメリカに渡った軽業師たち――

ヘンリー松岡 『アサヒグラフ』1947年9月10日号

ヘンリー松岡
『アサヒグラフ』1947年9月10日号

クレバ栄治 『J.T.B. Entertainment News』1954年頃

クレバ栄治
『J.T.B. Entertainment News』1954年頃

難波嘉一 『週刊サンケイ』1953年8月23日号

難波嘉一
『週刊サンケイ』1953年8月23日号

横井栄三(およびフローレンスと公子) 『少女世界』1951年1月号

横井栄三(およびフローレンスと公子)
『少女世界』1951年1月号

 ヘンリー松岡、クレバ栄治、難波嘉一、横井栄三。
 現代日本の芸能史ではほとんど記憶されていませんが、彼らは、第二次世界大戦後の占領軍/駐留軍向けヴァラエティ・ショーで活躍した芸人のうちの4名です。ヘンリー松岡は坂綱、クレバ栄治は足芸、難波嘉一は頭部倒立での階段登り、横井栄三は家族で演じる自転車曲乗りを売りものにしていました。米軍将兵を前にアクロバティックな芸を見せて戦後の混乱期を生き抜いた彼らですが、「アメリカ人の客」は決して初めての相手ではありませんでした。というのもこの芸人たちは、1900~30年代には数年または数十年をアメリカに暮らし、ヴォードヴィルやサーカス、見本市などの舞台で演じていたからです。
 今回の発表では、「見るだけでわかる」諸芸で彩られた戦後の米軍慰問ショーを鏡として、20世紀はじめから1960年代まで、太平洋をまたぎ日米を駆け抜けたアクロバットの残映を探ります。

 

●青木 深(あおき しん)
1975年神奈川県生まれ。東京女子大学講師。歴史人類学、日米交流史、ポピュラー音楽研究。
著書に『めぐりあうものたちの群像――戦後日本の米軍基地と音楽1945-1958』大月書店、2013、など。
論文に、「調査と表現をつなぐ時間――記録文学と歴史的民族誌の方法的検討」(『社会と調査』19、2017)、「縁と跳躍――山口昌男における『敗者』の手法」(『ユリイカ』45(7)、2013)、「エキゾティシズムを歌う――進駐軍ソングとしての『支那の夜』と『ジャパニーズ・ルンバ』をめぐる歴史人類学的研究」(『ポピュラー音楽研究』16、2013)、「戦後日本における米軍軍楽隊の活動と人的接触――1945-58年」(『ポピュラー音楽研究』14、2011)、など。

第54回
●「サンクトペテルブルグでサーカスと漂流民を追う」大島幹雄

  • 2019年3月9日(土) 午後3時~5時50分
  • 早稲田大学 戸山キャンパス33号館434号室

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●「サンクトペテルブルグでサーカスと漂流民を追う」大島幹雄

ロシアに眠る資料を掘り起こす――

サーカス博物館 ラザレンコのコスチューム

サーカス博物館
ラザレンコのコスチューム

東洋学研究所正面

東洋学研究所正面

 第7回国際文化フォーラムサーカス・野外劇部門に招待され、「日露サーカ
ス交流120年」の報告をした。このサーカス部会での他の報告者の報告内容
をはじめ、このあとサンクトペテルブルグに滞在して見てきたもの、調査して
きたことを報告する。

【前半】ストリートチルドレンを集めて運営しているウスプラサーカスで見た
「ピロスマニの夢」について、去年設立90周年を迎えたサーカス博物館で
じっくり調査することができたので、この博物館についてや、ここでの調査で
明らかになった日本人芸人についてなどを報告。

【後半】文化元年(1804)に仙台の漂流民を連れて来日した遣日使節レザー
ノフ(1764-1807)が長崎で編纂した「日本語辞書増補版」。長年追い求め
てきたこの辞書を東洋学研究所で閲覧することができた。わずかな時間で
あったが、このとき調査したことを報告する。

 

●大島 幹雄(おおしま みきお)
サーカスプロデューサー。著書に『サーカスと革命』(水声社)、
『明治のサーカス芸人はなぜロシアに消えたのか』(祥伝社)、
『サーカス学誕生』(せりか書房)など。

第55回
●「731部隊と戦後日本ーー民族優生思想から『不幸な子供を産まない運動』へ」加藤哲郎

  • 2019年4月27日(土) 午後3時~5時50分
  • 早稲田大学 戸山キャンパス33号館231号室

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●「731部隊と戦後日本ーー民族優生思想から『不幸な子供を産まない運動』へ」加藤哲郎

“悪魔”の思想のその後――

図版01

 

図版02

 

 旧満州で関東軍731部隊は、「日本人は優秀」という民族優生思想にもとづき、抗日運動に加わった中国人・ロシア人・朝鮮人等「マルタ」数千人を対ソ細菌戦用の人体実験材料とした。その存在は1949年末ソ連ハバロフスク裁判で明るみに出たが、ちょうどシベリア抑留日本兵帰還時で、GHQと日本政府から「ソ連のプロパガンダ」「デッチ上げ裁判」と否定された。1981年の森村誠一『悪魔の飽食』ベストセラー以降、当事者の証言や米軍資料の発掘が進み、2017年のNHKスペシャル「731部隊の真実」ではハバロフスク裁判の日本人被告証言が音声で放映され、公判記録の信憑性が証明された。また、日本政府が長く隠匿してきた731部隊「留守名簿」3600名の実名が2018年に公開され、旧731部隊の優生思想が戦後にも受け継がれ、1948年旧優生保護法の強制不妊手術合法化(戸田正三・二木秀雄)、優生手術による「不幸な子供を産まない運動」の全国執行責任者(長友浪男)を産み出したことが分かった。

(参考)加藤哲郎『「飽食した悪魔の戦後』2017、『731部隊と戦後日本』2018(共に花伝社)

You Tube 加藤講演映像
https://www.youtube.com/watch?v=DSVuosJHQ2A&feature=youtu.be

 

●加藤哲郎(かとう・てつろう)
1947年岩手県生まれ。東京大学法学部卒業。博士(法学)。
一橋大学名誉教授、前早稲田大学客員教授。専攻は政治学・比較政治・現代史。
インターネット上で「ネチズン・カレッジ」主宰。
著書に『ワイマール期ベルリンの日本人』『日本の社会主義』(岩波書店)、
『象徴天皇制の起源』『ゾルゲ事件』(平凡社)、『「飽食した悪魔」の戦後』『731部隊と戦後日本』(花伝社)など多数。

第56回
●「マレーヴィチはヴィテプスクで何を夢見たか?」沼辺信一

  • 2019年5月18日(土) 午後3時~5時50分
  • 早稲田大学 戸山キャンパス33号館231号室

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●「マレーヴィチはヴィテプスクで何を夢見たか?」沼辺信一

抽象美術の教育現場を捉えた一枚の写真が物語るもの

ヴィテプスク人民美術学校で講義するマレーヴィチと「ウノヴィス」のメンバー(1921年9月)

ヴィテプスク人民美術学校で講義する
マレーヴィチと「ウノヴィス」の
メンバー(1921年9月)
背後の壁にひときわ高く掲げられた
二枚の絵画に注目。

マレーヴィチもしくはアンナ・カガン?《スプレマチズム》(制作年未詳)佐倉、DIC川村記念美術館

マレーヴィチもしくはアンナ・カガン?
《スプレマチズム》(制作年未詳)
佐倉、DIC川村記念美術館

マレーヴィチ《スプレマチズム》(1915年)サンクト・ペテルブルグ、国立ロシア美術館

マレーヴィチ《スプレマチズム》
(1915年)
サンクト・ペテルブルグ、国立ロシア
美術館

 1919年11月、カジミール・マレーヴィチはモスクワからベラルーシの都市ヴィテプスクに移り住みます。同地に創設された人民美術学校の教授として、校長マルク・シャガールから招かれたのです。すでに独自のスプレマチズム理論による抽象絵画を完成させたマレーヴィチは、鋭敏な知性と不屈の闘志を兼ね備えたカリスマ教官であり、学生たちも同僚の教授たちもほどなくマレーヴィチの感化を受けて芸術集団「ウノヴィス」を結成。美術学校はスプレマチズム探究の場と化し、史上初の抽象主義に基づくカリキュラムが実践に移されます。面目を失った校長シャガールは、失意のうちにモスクワ転居を余儀なくされました。

20世紀美術史を画する出来事から今年はちょうど百年。このまたとない機会にマレーヴィチが夢見た芸術革命の意義を考えるとともに、ヴィテプスクの教育現場を写した一枚の写真を手がかりに、スプレマチズム絵画が辿ったその後の数奇な運命についても報告します。

●沼辺 信一(ぬまべ しんいち):編集者・研究家。
1952年生。ロシア絵本の伝播、日本人とバレエ・リュス、プロコフィエフの日本滞在など、越境する20世紀芸術史を探索。桑野塾登場は六回目。
ブログ 「私たちは20世紀に生まれた」

第57回
●「群棲する都市—1960-70年代におけるソ連建築家グループNERの試み」鈴木佑也
●「絵グラフで見るソ連—イゾスタトによるグラフィック・デザインの冒険」河村彩

  • 2019年7月20日(土) 午後3時~5時50分
  • 早稲田大学 戸山キャンパス33号館231号室

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●「群棲する都市—1960-70年代におけるソ連建築家グループNERの試み」鈴木佑也

大阪万博でのNER出展作品(1970)

大阪万博でのNER出展作品(1970)

 本報告では1970年の大阪万博で個別に招待されたソ連の建築家グループNERを扱います。ソ連で「アパート」が登場したのは1950年代末でした。それまでのソ連の建築は装飾性を重視したかのような歴史主義建築のスタイルがよしとされていましたが、いわゆる「雪解け」期直前にそうしたスタイルが否定され、機能性と経済性が求められた頃にこのアパートが登場し、大量生産型のアパートがソ連各地で建設され始めます。しかし、経済性および建設速度を追求するあまり、画一的な外観と建設地それぞれの気候にそぐわない機能性という問題が生じ、打開策が求められました。さらに住居不足問題は解消され始めますが、住居環境の改善や居住区の利便性といった問題が残ってしまいました。そうした状況の中で若手の建築家グループNER(Новые Элементы Расселения)は「都市を成長させるのではなく、その要素を配置し直し繁殖させる」という実験的な都市計画の設計案を考え、ソ連国外の建築ビエンナーレや万博に招聘され、1960年代から1970年代にかけて世界的に名声を得るるようになります。この建築家グループNERが製作した設計案を取り上げ、当時のソ連における都市計画の特徴とそれに対するNERの影響を説明します。

●鈴木 佑也(すずき ゆうや)
東京外国語大学、東京工業大学非常勤講師、上智大学非常勤講師。ロシア及びソ連の美術史と建築史を専門とし、現在は
1930-60年代のソ連における都市計画及び大型建築プロジェクト、集合住宅とその表象文化について研究している。

●「絵グラフで見るソ連—イゾスタトによるグラフィック・デザインの冒険」河村彩

 1931年イゾスタト(全ソ図解統計研究所)がモスクワに設立されました。研究所の活動に尽力したのはウィーンの経済学者オットー・ノイラートで、助手の画家ゲルト・アルンツと共に統計を図で分かりやすく示す「ウィーン・メソッド」を確立した人物でした。芸術家のリシツキーとも交流のあったノイラートは、満足な教育を受けていない労働者や、文字を読むのが苦手な人々にも社会の客観的な事実をデータで伝える、という自らの信念を実現すべくソ連にやってきたのでした。
 本発表ではイゾスタトおよび国立造形出版局の出版物を紹介しながら、五カ年計画の成果がどのようにグラフィック・デザインに表わされたのか考察します。ロトチェンコやステパノワ、リシツキーら構成主義者が関わったこれらの出版物は、世界的にみても当時のグラフィック・デザインの最高峰に位置しているといえます。当日は目にする機会の少ない資料を惜しみなくお見せする予定です。ソ連が産み出した素晴らしいデザインをご堪能ください。

●河村 彩(かわむら あや)
東京工業大学リベラルアーツ研究教育院助教。ロシア・ソ連の美術と文化を専門に研究しています。
著書に『ロトチェンコとソヴィエト文化の建設』(水声社、2013年)、『ロシア構成主義』(共和国、2019年)など。

第58回
●「関口存男とは何者なのか ―その生涯を再検証する試み―」柴田 明子
●「ブルリュークの頃のシベリアの紙幣」鈴木 明

  • 2019年9月28日(土) 午後3時~5時50分
  • 早稲田大学 戸山キャンパス33号館431号室

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●「関口存男とは何者なのか ―その生涯を再検証する試み―」柴田 明子

『新東京』第一号(昭和5年6月30日発行)より この時、関口は35歳

『新東京』第一号(昭和5年6月30日発行)より
この時、関口は35歳

 関口存男(せきぐちつぎお 1894〔明治27〕~1958〔昭和33〕年)は、ドイツ語学の権威として知られ、数多くのドイツ語教科書、参考書、研究書、翻訳書を公刊しました。ドイツ語教師として大学や語学学校で教鞭を執ったのはもちろんのこと、NHKラジオ講座の講師もつとめ、外務省にも関わっていました。一方で演劇の分野でも活躍し、1917〔大正6〕年には青山杉作、村田實、木村修吉郎らと劇団「踏路社」を創立、脚本の翻訳・翻案に当たっています。役者、演出家としても活躍しました。社会活動家としての一面もあって、1945〔昭和20〕年、疎開先の長野県妻籠で日本初の表彰公民館となる妻籠公民館の運動を支え、村の青年たちに演劇指導も行いました。勝野金政(かつのきんまさ 1901〔明治34〕~1984〔昭和59〕年)とも繋がりがあり、関口が妻籠に赴いたのは勝野の招きだと言われています。1930年代に日本で進められたユダヤ難民移住計画(河豚計画)に関口が関わっていたとする記述も残っています。

 調べれば調べるほど新たな相貌を現す関口。「ドイツ語のゾンダン先生」というイメージに留まらない多様な姿が見えてきました。調査の途中経過を報告します。

●柴田 明子(しばた あきこ)
編集者。『関口存男著作集』(三修社、1994年)を担当。2018年4月~2019年3月、「関口存男没後60年記念事業『存在の男』展(三修社)を企画・運営。

●「ブルリュークの頃のシベリアの紙幣」鈴木 明

アマチュア研究者は、
プロの使わない二次元資料
(紙幣、絵葉書、地図、パンフ etc)で
大いに愉しむ

●鈴木 明(すずき あきら)
1939年生まれ。日ソ学院でロシア語を学ぶ。ロシア語の機械マニュアル作成に従事。
ロシア・アヴァンギャルドの画家ダヴィッド・ブルリュークの研究者。
共著に「ブルリューク、フィアラの頃の小笠原」(2006年)、
訳書にバーツラフ・フィアラ著「富士山詣で」(2012年)、
「OGASAVARA」(改訂版2010年)、「上野公園」(2008年)、
ブルリューク著「大島」(2001年)、「海の物語」(2003年)など。

第59回
●「『ロマノフの消えた金塊』~地下水脈をたどって(シベリア出兵を背景に)」上杉一紀
●「日本バレエ教育史の転換点 チャイコフスキー記念東京バレエ学校(1960–1964)とソヴィエト・バレエ」斎藤 慶子

  • 2019年12月21日(土) 午後3時~5時50分
  • 早稲田大学 戸山キャンパス33号館437号室

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●「『ロマノフの消えた金塊』~地下水脈をたどって(シベリア出兵を背景に)」上杉一紀

白軍にほとんど奪われたボリシェヴィキ政府の金貨(カザン保管庫)

白軍にほとんど奪われた
ボリシェヴィキ政府の金貨
(カザン保管庫)

ロマノフの金塊500トンを金準備とした白系全ロシア政府(オムスク)の最高統裁官コルチャーク提督

ロマノフの金塊500トンを金準備と
した白系全ロシア政府(オムスク)
の最高統裁官 コルチャーク提督

連合各国軍の上陸パレード(1918年8月・ウラジオストク)

連合各国軍の上陸パレード
(1918年8月・ウラジオストク)

金塊流出に深く関与したザバイカルコサックの頭目セミョーノフ

金塊流出に深く関与したザバイカル
コサックの頭目セミョーノフ

 日本とロシアの間には100年越しの因縁話が横たわっている。
 第一次大戦前夜、アメリカについで世界第二位の金準備高を誇っていた帝政ロシア。十月革命で、国家資産の金貨金塊は一夜にしてボリシェヴィキ政権に押収された。だが、戦火を避けてカザン市で保管中だった金準備は、シベリア出兵開始のタイミングで、白軍にほぼそっくり奪われた。西シベリアの白系政府の手に落ちた金貨金塊の総量は実に500トン。これが白軍対赤軍のシーソーゲームのなかで四散する……。
 ソ連崩壊後のロシアでは、日本が金塊のかなりの部分を持ち去ったとの見解が浮上した。果たして真相はどうなのか。地下水脈となってシベリア東部へと流出したロマノフ王朝の金塊の行方を、専らオープンソースを手掛かりにとことん探る……。
 なお、報告は12月に東洋書店新社から刊行予定の同名書をベースに行う。

●上杉 一紀(うえすぎ かずのり)
一九五三年札幌生まれ。早大法学部卒。北海道テレビ放送入社。主に報道畑を歩き、ニュース、ドキュメンタリーの制作にあたる。旧ソ連の閉鎖都市ウラジオストクを西側テレビ記者として初取材。マニラ特派員(ANN系列)、報道部長、取締役、映像制作会社代表等を務めた。
著書に『ロシアにアメリカを建てた男』(旬報社)、番組に「霧の日記~アリューシャンからの伝言」(民放連賞テレビ教養部門最優秀作)ほか。

●「日本バレエ教育史の転換点 チャイコフスキー記念東京バレエ学校(1960-1964)とソヴィエト・バレエ」斎藤 慶子

東京バレエ学校の開校を伝える新聞記事(林得一「チャイコフスキー記念」『ソヴィエト文化』1960年、94号)

東京バレエ学校の開校を伝える
新聞記事
(林得一「チャイコフスキー記念」

『ソヴィエト文化』1960年、94号)

ミコヤン第一副首相が『くるみ割り人形』を観劇した際に撮影された写真(スラミフィ・メッセレル「東京のチャイコフスキー記念学校」『スメーナ』1962年、170号)

ミコヤン第一副首相が『くるみ割り
人形』を観劇した際に撮影された写真
(スラミフィ・メッセレル
「東京のチャイコフスキー記念学校」
『スメーナ』1962年、170号)

 チャイコフスキー記念東京バレエ学校は、日本初の総合的な教育を行うバレエ学校として、1960年5月東京都世田谷区に設立された。冷戦構造を背景として実現した学校設立の経緯、学校で行われた教育活動の詳細、日本が影響を受けることになったソ連バレエ普及政策の仕組みについて未公開資料や関係者へのインタヴューを基につづった博士論文(2019年1月博士号(文学)取得、早稲田大学)から、報告を行う。今でこそその存在さえ忘れかけられている東京バレエ学校だが、まさにここにおいて職業的バレエ教育が日本で初めて紹介されたのである。
 博論の成果の一部は、『「バレエ大国」日本の夜明け チャイコフスキー記念東京バレエ学校 1960-1964』と題して、文藝春秋企画出版部から2019年12月に刊行が予定されている。

●斎藤 慶子(さいとう けいこ)
研究テーマは日露バレエ交流史。リムスキー=コルサコフ記念サンクト・ペテルブルグ国立音楽院舞踊学部歴史・批評学科卒。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程人文科学専攻ロシア語ロシア文化コース退学。博士(文学、早稲田大学)。現在は、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター学術研究員を務める。

第60回 共催:エイゼンシュテイン・シネクラブ
●「ラジスラフ・ストナル(1897-1976)のカタログデザイン論とアヴァンギャルド」大平陽一
●「映像で見るロシア・アヴァンギャルド」井上 徹

  • 2020年1月25日(土) 午後3時~5時50分
  • 早稲田大学 戸山キャンパス31号館01教室

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●「ラジスラフ・ストナル(1897-1976)のカタログデザイン論とアヴァンギャルド」大平陽一

ラジスラフ・ストナルのデザイン

ラジスラフ・ストナルのデザイン

ラジスラフ・ストナル(1897-1976)

ラジスラフ・ストナル
(1897-1976)

 戦中戦後のアメリカで商業デザイナーとして働いたストナルは、今では情報デザインの先駆者と見なされているが、こうした評価は比較的最近のことであり、2002年に学会が催された際、ヤコブソンやワーマンは「この分野が60-70年代にまで遡る」と指摘しつつも、ストナルには言及しなかった。
 一方2016年に刊行された『デジタルデザインの理論』には、1961年に自費出版された『行動するビジュアルデザイン』の一節が先駆的業績として収められているが、実は同書でストナルが力説しているのは、自身のデザインのルーツが戦間期のアヴァンギャルド芸術にあるという事実であった。
 本報告では、ストナルのアメリカ時代の仕事をチェコ時代の仕事と結びつけ、さらにストナルのデザインへの戦間期アヴァンギャルドの影響について根拠薄弱な推測を含めて語りたい。

●大平 陽一(おおひら よういち)
天理大学国際学部教授。戦間期チェコの文化に関心をもっていますが、研究者というよりはチェコ・アヴァンギャルドの理論家カレル・タイゲがデザインした本や雑誌の収集家です。

●「映像で見るロシア・アヴァンギャルド」井上 徹

映画『幸福』

映画『幸福』

映画『幸福』

映画『幸福』

映画『僕のおばあさん』

映画『僕のおばあさん』

映画『僕のおばあさん』

映画『僕のおばあさん』

『冬宮襲撃』

『冬宮襲撃』

『冬宮襲撃』

『冬宮襲撃』

『冬宮襲撃』

『冬宮襲撃』

 ロシア・アヴァンギャルドといったとき、現在も残る絵画やポスター、絵本などは「見ればわかる」で、その重要性は一目瞭然です。
 一方、重要な一部である演劇は、文字や舞台装置の写真などの資料がほとんどなので、映像に依拠した研究は、ほぼありません。しかし、最近は映像アーカイブのデジタル化で、思いがけない映像資料がいろいろと出てきています。映画におけるロシア・アヴァンギャルドについての見方も、映画史の断片的つぎはぎ状態を、そろそろ脱する時かもしれません。
 そこで、映像で見るロシア・アヴァンギャルドについて研究で最低限押さえておきたいことを整理したいと思います。

●井上 徹(いのうえ とおる)
1965年東京生まれ。エイゼンシュテイン・シネクラブ代表。映画史・ユーラシア文化研究者。
「ロシア・アニメ映画祭2000」「ロシア・ソビエト映画祭」など、 さまざまな上映の企画・運営にたずさわる。著書に『ロシア・アニメ』(東洋書店)。共訳書に『エイゼンシュテイン全集』第9巻(キネマ旬報社)ほか。


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